SFだと思って読んだ本がミステリだったのだが、なんだこれミステリじゃねぇか、しかも設定のわかりにくいやつだ、と思ってがっかりしながら巻末の解説を読むと、「これは立派にSFである」という堂々たる宣言があった。
なるほどたしかに。
解説者が専門的な目で中身を肯定してくれたから、読書の時間が無駄にならなくてすんだ。ああよかったなぁー、ぼくの中途半端な読み方だったら、この本は永久にクソミステリに分類されて二度と言及しなかったろう!
なーんてことがあったので、「解説」というものの功罪をじっくりと考えている。
まだ考え中だから、どういうことを思っているかについてはあまり書かないけれど。ちょっとだけ書いておく。
解説者というのはできれば悟っていてほしい。自分のいうことに自信がなくても、根拠があいまいでも、だれかに怒られそうでも、そのときのあなたの立場をそのままぶつけて、解説の対象を盛り上げたりくさしたり、とにかく一本スジを通してさえくれれば、こちらはあなたの解説を読んで、右に曲がろうか左に曲がろうか、それともまっすぐ進もうかと、三叉路で少し胸を張って選択できるかもしれないのだ。
話はかわるがちかごろ引っ越しを考えている。けれど、結局はしない気がする。もうなんだか引っ越しという作業にあこがれる年でもない。模様替えにも心がおどらない。新しい住み処のまわりにあるコンビニの種類が今までと変わったといって浮かれることもないだろう。本屋はどのみち札幌駅まで行かないとない。いい感じの飲み屋が1軒あったくらいではぼくの生活はもはや何も変わらない。たぶん今のぼくは、選択肢をどっちに動いたらすごく変わるとか、あの案件を拾ってあの案件を捨てたことで人生がひどくおもしろくなるとかつまらなくなるとか、そういう、「選択次第」の段階を少し抜け出したのではないかと思う。
だからこそ、これからの選択については、あまり大勢に影響がなく、多くの人に迷惑をかけることもなく、ただひたすら、自分の過ごす2時間のために少しいいか悪いか、くらいの、マイニュートな気持ちの浮き沈みのためだけに慎重に選んでいきたいんだよなあ、とかそういうことを考えている。
マイニュート、ということばを「些細な」から書き換えるまでに20秒ほど考えて選択をした。
この選択で誰かがとても悲しむわけではなく、ぼくがとても大喜びすることもないが、ぼくはこういう選択を次々と繰り出しながら、何も変わらなくなりつつある自分の人生に対して些細な勝負をしかけていくことになるのである。