ごっそり消して書き直したものが今日の記事である。
「建前」についてつらつら書いたら、いろいろ透けて見えてしまった。タイトルはそのなごりである。
具体的に書かないと伝わらないだろう。多少具体的に書こう。ぼくは消す前の記事で、本の「謹呈」とか「献本」についてのあれこれを書いていた。
今までこういうことでお世話になったから本を送りたいとか、今後一緒に何かをしたいから本を送るとか、前に本を送ってもらったお礼だとか、そういうことを、本を送る人、送らない人、ひとりひとりについてずっと考えていて、そこにまつわるあれこれを、ダラダラと書いた。
できあがったものを一端寝かせて、時間をおいてから読みなおした。いいわけだらけだった。
うーむとうなってCtrl+Aで全選択して消した。
誰にメールを送るとか送らないとか、文面をどうするとか、そういうことを気遣わなければいけないのは社会人のたしなみであり、摩擦を減らして交流をスムーズにするための技術である。
でもぼくは、この技術を使うことがしばしば「目的」になっている。
本来は「手段」でなければいけないメールや手紙などの技術を知るうちに、いつしか、「気づかいが行き届いている自分が気持ちいいからこれからも気づかいをしようと思う」みたいに、技術が目的にすりかわっている。
建前をぶつけられる相手の気持ちになってみればいい。
その建前、発する自分は思いやりのつもりなのかもしれないが、めんどくさくて重い槍となって相手につきささっている。
仲の良い人、会ったことのない人。
仕事でつきあいがある人。遠くでみていただけの人。
会ったことがないから、会って話をしたら幻滅されてつらいかもしれない人。
会ったことがあるけど、あまりよくわからない人。
さまざまな人との会話をふぁぼって終われるツイッターこそはぼくにとって最高のツールだった。
メールや手紙の文化に戻らなければいけないことは、けっこうなストレスであるなあ。