2018年1月26日金曜日

脊髄だけが旅をする

葉物野菜を煮て食べたところ、ほどよく歯ごたえがありほどよく柔らかかった。おいしいおいしいともりもり食べた。

ヒトの味覚というのはもともと、自然界にあるもののうち、食べて良いものを美味と感じ、食べてはいけない毒を苦いとか酸っぱいと感じるように進化してきたんだと漠然と思っていたのだが、「ほどよい歯ごたえ」に至ってはそれがどれくらい体のためになるのかわからない。硬すぎたら消化できないというのは理解できるが、柔らかすぎて体に悪いことがあるわけでもなかろう(アゴが弱るとかそういう話はいったんおく。自然界に生きていて柔らかいものだけを連続で食べる機会などないのだから)。

しゃきしゃきとしてそれでいて噛みきれる快感、なんて、進化の過程で副次的に得られたバグみたいなものなのではないか、と思わなくもない。それが何の役に立つのだ。



そういえば先日、「マツコの知らない世界」でウメボシのことを取りあげていたのだが、翌日ある人と話をしていたら、

「うちの子供がさあ、ウメボシ見ても口の中に唾液が出てこないっていうんだよ」

といわれて思わずのけぞった。そのお子さんは小学生くらいだったと記憶しているが、生まれてこのかた、おにぎりに入っているウメボシも弁当にたまに入っているウメボシも、そこまですっぱいと思って食べたことがないらしい。あれか、はちみつに漬けたタイプのウメボシが全盛だからか。お弁当用のウメボシはときに甘めに調製されているとも聞く。

ウメボシがすっぱいという経験をしないままに小学生くらいに育ってしまうと、ウメボシを見てもパブロフの犬的な反射が発動せず、口の中に唾液をためることもない、ということなのだろう。

こんなことでジェネレーションギャップを感じることになるとは思わなかった。




そのことを思い出して、そうか、しゃきしゃきおいしい野菜なんてのは、もしかするとぼくが今までの人生において「このしゃきしゃき野菜を食べると、味付けとか、一緒に食べているものの味とか、ビールとか、いろいろおいしいなあ」という記憶を積み重ねてきた末に、「このおいしい野菜を食ってるときにはときおりしゃきしゃき感じるなあ」というあたりがパブロフ化して、ついでにいうと途中の複雑な過程を忘却した結果、「しゃきしゃき野菜=おいしい」という連想につながっているのかもしれないなあ、などと考えた。ウメボシを見て唾液がたまるように、しゃきしゃき野菜を噛むとおいしいという感情がたまっていくのではないか。




なーんてことを書き連ねているうち、ブログ投稿欄のスクロール・バーが50%より短くなってきたので、そろそろ書き終わろうと反射的に思った。これもまたパブロフ的ななにかなのだろう。ぼくはときどき脊髄反射で生きている。