2018年1月24日水曜日

完全体になれさえすれば

医療系の雑誌の名前はもう少し何とかならんのかというくらいシンプルだ。「病理と臨床」とか「臨床病理」はまだいいほうである。「胃と腸」とか「肝臓」とか「胆と膵」。そぎ落としの美学であるな。正直ダサい。けどそこがいいともいえる。

思い起こせば、世の中でいちばん有名な科学雑誌のネーミングがNature(自然)とかCell(細胞)とかScience(科学)なわけである。これらの英文誌にあやかって日本の雑誌も真似したのかもしれない。

今届いたばかりの「胃と腸」の最新号を読みながら、そんなことをふわふわと考えていたところ、記憶のだいぶ下の方に埋もれている薄暗い情景のなかから、ぼうっと、とある「沖縄料理屋」の風景が浮かんできた。

うーむこの記憶はなんだったろう。

連想の理由がすぐには思い付かない。雑誌をめくる手をしばらくとめて、目を閉じて記憶を掘りにいく。




ネイチャー……サイエンス……。




あれはぼくがまだ医学生か、もしくは大学院生だったころだ。すすきのか大通か忘れてしまったが、沖縄料理屋があって、ぼくはそこでラフテーとかトウフヨウなどをつまみながら泡盛を飲んでいた。札幌にも沖縄料理屋があり、そこはベトナム料理とかロシア料理の店とおなじように異国情緒を売りにした店だったように思う。ぼくはひとりではなくて、誰かと一緒にいたはずだ。全く覚えてはいないのだけれど、そこに置いてあった一冊の雑誌を見てゲラゲラ笑って発した自分の言葉が、断片化した記憶の海からかすかに浮かび上がった。

「ネイチャーサイエンスてwwwwインパクトファクター高ぇwwwwwwwwww」

ぼくは確かにこう笑った。全部ではないけれど思い出した。

その沖縄料理屋には、沖縄の自然を特集する「ネイチャーサイエンス」なるタイトルの雑誌が置いてあったのだ。直訳すれば「自然科学」、別にどこに出しても恥ずかしくない雑誌名ではあるけれど、ぼくは当時、病理の大学院で研究する気まんまんの才気走りクソ野郎だったから、めちゃくちゃ有名なイギリスの科学雑誌ネイチャーと死ぬほど有名なアメリカの科学雑誌サイエンスのあいのこみたいな日本の雑誌名を見て大笑いしたのだ。

あれ以来、ぼくは本家Natureとか元祖Scienceの表紙をみるたびに、なぜか沖縄料理屋の風景だとか泡盛の味を思い出すように条件付けされる日々が続いたのだった。もう15年くらいの月日が流れて、最近はそんなことすっかり忘れていたけれど、なぜかこのタイミングで思い出した。




ほんとにそんな雑誌があったのかなあ。

Google。

ネイチャー サイエンス 沖縄

だめだ、出てこない。沖縄のコテージサイトとか、自然食品とか研究助成金の話しか出てこない。

もしかしたら英語表記だったのかもしれない。だから余計に笑ったのではないか。そう思って検索語句を変えた。

Nature Science 沖縄




まさか本当に出てくるとは思わなかった。国立国会図書館の、雑誌バックナンバーがひっかかったのである。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I010146895-00



これをもとに検索語句を追加してみた。もはやどこの国の何のためのサイトだかわからなくなってきたが、この雑誌に間違いない。




雑誌「NATURE SCIENCE」は確かに存在した。なんと角川書店ではないか。「沖縄大特集」の日付は2002年6月号、ぼくが医学部を卒業したのが2003年の3月だから時期的にもしっくりくる。やはりぼくは、医学部の6年生もしくは大学院の1年目くらいに、「沖縄大特集」が掲載されたために沖縄料理屋の店主の目をひいて購入されたのであろうNATURE SCIENCE誌を確かに見ていたのだ。



検索して顔がほころぶのを抑えられなかった。読み終わっていそいそと「胃と腸」を読む作業に戻ったが、脳内メモリの半分くらいを「胃と腸」の読書にあてながらも、残りの半分、あるいはそれ以上の部分を使って、あの沖縄料理屋がなんという店名だったろうかと思い出そうとした。

すすきのでかつて何度か行ったことのある「星空料理店」だったろうか。細いビルの10階にあったこの沖縄料理屋は今も営業しているようで、食べログやホットペッパーのサイトで店内をみることができ、ああこんな店もあったなあ、すすきので15年以上続いてるなんて立派な店だなあと感動もした。しかし、ぼくがネイチャーサイエンスを見かけたのはこの店ではなかったような気がする。

店の名前を思い出すことができないまま、記憶を深く深く掘り進めていくうち、息子といっしょに旅行したとある島の風景とか、こないだ訪れたモンゴルの草原の風景とかが、発掘場所に周囲から流れ込んでくる土砂のようにぼろぼろと堆積し、記憶の地層は次第に混沌としてしまって、ぼくの記憶考古学はそこで中止せざるを得なかった。