2020年7月16日木曜日

病理の話(434) 老化を走ってはいけません

たまに本に書いてあること。

「なぜ生命は老いて死ぬのだろうか」。




たまに見かける答え。

「それは遺伝子を守るためです。時間と共に、遺伝子には傷がついていきます。もし生命に『老い』がなくて、何百年経っても子孫を残せるシステムだとすると、後年になってうまれた子孫はみんなボロボロの遺伝子を受け取ることになる。そういうタイプの生命はけっきょく代を重ねていくうちに、ボロボロの遺伝子によって生き残る確率が減ってしまう。だから滅びちゃう。

老いがあるということは逆にいえば若い時期があるということ。若さがあるということは、ざんこくな言い方になりますが、生殖可能な年齢が見極めやすいということでもある。若いうちだけ子孫を残せるシステムにすれば、遺伝子の傷が増えるまえに誰もが子孫を作る。すると、あまり傷がついていない状態で、子孫に遺伝子を伝えることができる。

老いがなければそうはならない。老いがあるからこそ人は子孫に整った遺伝子を伝えられるんだ……」





気にくわない答えだよね、科学的にはそうなんだろうけど、なんか心情的にむかつく。手段と目的が入れ替わっているときのような。

ぼくの答えは違う。

老いがなぜ存在するのか?



それは、なんか、たまたまだ!







……すみません。いろいろあるけど書き切れないからまたの機会にする。






アメリカとか屋久島あたりに生えている、樹齢何百年もの巨大な樹。あれって寿命がないからいつまでも大きくなるんだよな。いつまでも遺伝子伝え続けてるじゃないか、と思ったことがある。

何かの本で読んだのだけれど、大きくなりすぎた樹って中が中空になっていたりする。あれ不思議だよね。なんで中だけ枯れちゃうんだろう。中だけ燃えちゃうときもあるという。

その話を調べていた。すると、樹ってのは、外側で生きてる細胞と、中の芯の部分に生きてる細胞が、「同じ生命」とは言えない……という考え方があるらしい。大きな樹というのは単一の生命ではなくて、例えるならば「街」みたいなものだというのだ。複数の生命が寄り集まって、あたかもひとつの生命のように協力し合ってやっている。

2丁目の買い物通りの八百屋も魚屋もずっとそこにあるけれど、店主はそれぞれ2代目と3代目だといったとき。お店ではたらく人はとっくに入れ替わっているのに、ぼくらはそれを「代わらない街」として認識する。

あるとき八百屋と魚屋がつぶれてそこにパチンコ屋ができた。残念だなあ、と思うけれど、街が滅んだわけではない。「街はそこにある」と認識する。

どうも植物にもそういうところがあるんじゃないか、という考え方があるそうだ(生命科学的にどこまで正しいのかは知らない)。

で、ぼくはこの話を読んだときに、真っ先に、人間は老いて死ぬけど、人間がいっぱい集まって組み上げる社会とか世界とかは不老不死であり得るんだろうか……ということを思った。

樹が枯れるように社会が死ぬこともあるので不死とは言えないかもしれない。

けど、不老は……いけるのかもな……と、よくわからない期待をしてみたり。