2020年7月15日水曜日

やれるけれどやらない

ぼくは、かしこい人にもかっこいい人にもツイッター上で会える。

ただし、なんというか、そこにいると空気が落ち着く人とか、やわらかい印象の人とか、そういうのと出会うのがなかなか難しい。これはぼくの個人的な感想である。



ぼくが同じ空間にいて「落ち着くなあ」と感じる相手はそもそも今、ツイッターをやっていないかもしれない。

難しそうな本を背伸びして読んで居眠りをしている子ども。

あまり動かない犬。

せわしなく動いているがこちらをまったく気にしていない猫。

そろそろバスの時間なのにまだ足の爪を切っている大人。

こういった人たちを見て「落ち着くなあ」と感じるが、ツイッターではそういう人を見つけることが難しい。ニセモノの子ども犬猫大人がいっぱいいるけれど、ホンモノにはなかなか出会えない。




「やわらかい印象」の人もツイッターの中ではあまり見ない。たぶんそういう人はインスタグラムの片隅にいる。

晩ご飯までの短い時間に居眠りをしている子ども。

毛の長い犬。

高い所に座ってこちらをまったく気にしていない猫。

車のエンジンを切ったのにまだシートベルトをしている大人。

こういった人たちを見て「やわらかいなあ」と感じるが、ツイッターではそういう人を見つけることが難しい。ニセモノの子ども犬猫大人がいっぱいいるけれど、ホンモノにはなかなか出会えない。



とりあえずぼくは、「そういうクラスタ」の中で暮らしているということだ。

ひとことでツイッターと言っても、使う人によってまるでフォローする相手は違うし会話する相手も異なる。

ぼくとは違い、かしこい人もかっこいい人もまるでいないけれど、落ち着く人とやわらかい人だけがいるツイッターを使っている人も、たぶんどこかにいるだろう。




ぼくはその人のスマホを盗み見てみたい。

裏垢を作って、その人とまったく同じようなフォローをして、落ち着いたやわらかいツイッターを数日楽しんでみたい。

たぶんやれると思うのだ。でも、やろうと思うと、かしこい人が「やめとけ」といい、かっこいい人が「もっとほかにやれることがあるよ」という。それがわかっているからやらないだけである。