2020年7月20日月曜日

病理の話(435) 名医迷医どちらでも

病理の世界においても名医と迷医というのはいるように思う。たまにそういう話になる。

ただし、ここでしっかり確認しておきたいのだけれど、医療というシステムにおいて、名医であればいっぱい患者を救う、迷医にあたると患者は基本的にやばいことになる、みたいな構造があってはそもそもだめだ。

医療のクオリティを個人の優秀さに依拠させてどうする。あぶなっかしくてしょうがない。

その人が疲弊したら患者にダイレクトに迷惑がかかる、とか。

たまたま世界一優秀な病理医がいた病院で、その人が引退したら次から患者がぼろぼろ誤診で死に始めたとか。

そんなことになっていたらみんな困るだろう。

はっきり言うけど、「たとえ迷医にあたったとしても患者のデメリットがさほどない状態」を作ってなんぼ。

「誰が病理医をやっていても役に立つ状態」まで構造を仕上げてはじめて、商売(コマーシャル)で病理診断をやっていくことができる。




非常に丁寧に言葉を選んで言う。

ぼくは名医かどうかわからない。自分ではよくやっているほうだと思うが、クライアント(臨床医)によってはぼくを迷医だと思う人もいるかもしれない(それは個人の反省として本当にもうしわけないと思っている)。

けれども、ぼくの仕事は常に人の役に立っている。それは医療がそういうシステムをきちんと作っているからだ。

ここ、本当に慎重に書くけれど、

「ぼく個人が名医かどうかとは関係なく、ぼくが病理医として1名こうして勤務することで、システム的に患者の役に立つ」

ということが、病理診断科の根底を支えている。




その上で。

その上で、「迷医のままでも患者のためにはなるし、給料をもらう資格もあるんだけれど、個人的に反省をくり返して名医になりたい」という気持ちがある。




この順番をはき違えるとちょっとまずいんじゃないかなーと思うのだ。医学の話でも病理の話でもないように聞こえるかもしれないけれどこれはおおまじめに病理の話である。