2022年12月12日月曜日

病理の話(725) 属人的な部分で成り立っている医療体制の話

これはぼくにとってはわりと生涯のテーマなのだけれど、「属人的になんとかすること」の功罪をいつも考えている。


・ある病院では病理医が足りないのだが、めちゃくちゃよく働く病理医がひとりいて、その人が八面六臂の大活躍ですごい病理診断をバシバシ出すので、とてもいい感じで病院が回っている


とか、


・ある大学の講義を担当する病理医が超絶教え方がうまくて、そこを卒業していく医学生はみんな病理学に対する知識がすごく高くて、医者になってから診療や研究をするにあたって有利になっている


みたいな話はどこの世界にもあるだろう。これらの病理医の「個人的な資質」によって、世界が保たれている、あるいはとてもよくなっているというパターンだ。その人にしかできない仕事のためにうまくいく。その人に属する能力のために成り立っている。属人的。


で、これやっぱりよくないよねーというのが、平時のぼくの問題意識だ。すごい人がいるせいで回っている世界というのは、そのすごい人という歯車をひとつ外すとすべてが回らなくなる。今日もあちこちの病院で起こっていることである。


ある地域で30年働いていた病理医は、人格高潔、能力優秀で誰にも愛されており、定年後も本人はまだまだやる気満々で、引きつづき嘱託雇用となってさらに10年くらい働き、病に罹っても亡くなる数ヶ月前まで働き続けた。葬儀では無数の関係者たちから惜しみない賞賛の声が集まった。ところが、その病理医が亡くなったあと、後任の病理医が決まるまでの間にひとまず派遣のバイトでしのごうとしたところ、長年かけて職場にフィックスしまくって段取りも最強だった老病理医の仕事内容は、そんじょそこらの中年病理医ひとりやふたりでは、それも短期のアルバイト程度ではとてもカヴァーしきれなかった。臨床医たちも、長年の老病理医の凄さに「亡くなってから気づく」ありさまで、これまで病理検査室に出してきた要求がいきなり「そんなめんどうくさい小仕事にはお答えできません」みたいな塩対応で袖にされるようになってしまい、病理どころか病院全体の業務全般がうまく回らなくなった。病院経営者たちは大慌てで次に常勤で働いてくれるような、「かの老病理医の後を継げるような人材」を探すが、そんなすごい人、一朝一夕には見つからない……。


こういうシーン、ぼくの暮らす北海道でも、あるいは日本のどこでも毎日のように見聞きする。「離島の名開業医」とか、「神の手を持つ外科医」とかにも言えることだ。結局、その人がいなくなると回らない。というか、そういう天才がいない島は医療逼迫するし、そういう天才がいない病院の手術が下に見られたりもする。


達人・偉人たちに責任があるわけではない。誰が悪いわけでもないのだけれど、強いて言えば、達人たちに依存した体制で満足してしまった管理側、さらには達人たちのサポートをする教育を作る側が、なんとかしないといけないことではある。言うほど簡単ではない。

「ある程度の努力をするのは前提として、名医でなくても、普通の医者でもうまく働くことができるシステム」

……うーむ、理想である。追究しつづけないとなあ。




今日こうして書いてきた、「属人的な体制によって保たれている現場をよしと思ってはいけないよ」という話は、わりと言い尽くされていることで、反論する人はまずいない。

誰だって、理想を言えば「普通の医者でも医療が回るシステム」を作りたい。けれども、そのシステムを成り立たせるために必要な人びとの頭数が圧倒的にたりていない。

地方の病院にすごい医者がいて、その人のおかげでかろうじて地域が回っているとき、その病院の院長だって経営側だって、体制がいつまでも続くなんて全く思っていない。誰だって想像力は持っている。今さらぼくみたいな人間に「属人的な病理診断科はやばいですよ」なんてことを言われなくたってよくわかっている。

天才で間を持たせている間に、なんとかほかの人間の頭数を揃えて安定体制に入りたいと念じ続けている。それでも、人が集まってこない、なぜなら人がいなくて金がなくて、それ以上に夢がないからだ。


地方で働く人が少ないなら多めに給料を出せばいいだろうという議論はよくなされる。基本的にはそうするべきである。でも、じつは、金を出せばいいというものでもなくて、やはりそこで「普通の医者」として働くことに「夢」がないといけないと思う。ぼくはこの「夢の不在」こそが、属人的なひとりのがんばりによって支えられている現場のほとんどに根深く存在していると思っている。


仮に、属人的じゃないシステム、普通の医者でもいい医療ができるシステムを首尾良く作ったとする。AIの力を借りてもいい、タスクシフトで医者の仕事を看護師や臨床検査技師や放射線技師などと再配分するのでもいい、オンライン診療をどんどん使うのもいいだろう。でも、そのあとのことを考えて欲しい。そこで働く医者は「どんな人でもいい」ということになるのだが、これ、働く医者からすると、はっきり言って夢がないのだ。「普通の能力さえあれば、うちの病院はシステムがかんぺきだから、何もすごいことをしなくても、普通に働いてさえくれれば勝手に人が救われていくよ」というのは、裏をかえせば、君である必要はないんだよと言い続けられていることに等しい。

医療現場ではまさにこの、「誰でもいいから来てくれれば医療になる」というのが一番いい。しかし働くほうだとそうはいかない。それって俺じゃなくてもいいよね? に、うん! と言われて、はいそうですか、それはよかった、じゃあ俺は歯車になりますね、みたいに割り切りまくっている人って実際にはそんなに多くない。

この問題、ばかにできない。

医療体制というものをマクロで見たときには「属人的じゃだめだ!」がファイナルアンサーだと思う。でも、働く個々の人びとのきもちまで話をクローズアップすると、「自分の属人的な部分を誰かに喜んで欲しい」と思っている人はいっぱいいるはずだ。



「いやあそれって私の理想的な働き方ですよ、職場で目立ちたいとは思いませんね」みたいなことを言う人によくよくヒアリングをしてみると、たしかに職場では埋没して普通以上のことは一切したくないと公言しているけれども、じつは家に帰ってからVtuberとして大活躍していて、「仕事以外の部分で自分が自分であるための何かを求め続けるタイプ」の人であったりする。いいじゃない、そういう人にどんどん地方で働いてもらえば……って、地方がそんな、個人の趣味を全力応援するような場所だったらそもそも人はこんなに減らない。インターネットだけで地域差が解消するなんてありえない。電波で腹は膨れないし、Zoom飲み会だってあっという間に不人気になっただろう。


その人の中から浸みだしてくる、「私が私でなければいけない場所」が、職場内に、あるいは職場の近くに(それはもちろん自宅でもかまわない)に確保されている限りで、一日のある一定の時間を「あなたでなくてもできますが、あなたがいてくださると助かります」みたいな話に注ぎ込めるというのが本当の意味での理想なのだと思う。さて、このような状態を達成するのに、お金だけでなんとかなるものだろうか? ぼくはならないと思う。



くり返しというか言い直しになるけれど、医療現場が属人的なもので支えられている状態は不健全だ。しかし、その人が、その人でなければ困るよという目線は、職場の中に満ちていてほしい。この矛盾する両者を成り立たせるにあたって重要になるのは……


……


……


めちゃくちゃ理解ある上司……。かなあ……。生涯のテーマなので今日だけで結論を出す気は無いです。うちの病理診断科では歯車にも孤高にも、どっちでも、好きなようになれるよ、くらいの業務体制を、今いる中年が汗かいて構築・維持していくしかないのだろうな。