職場で使っている膝掛けがプーさんなのでそろそろ買い換えたい。プーさんが「HI YA !」って言ってる。ひや? 日本酒か?
買い換えたところで誰かが見るわけでも評価するわけでもないのだけれど、これはぼくが毎日見る。そして毎日すこしずつなんらかの形で心を微弱に動かされている。人間はひたすら脳の微調整をくり返しながら生きていくので、毎日「HI YA?」と些細な刺激を受け続けていれば10年後にはなんらかのかたちで変成が起こっているだろう。プーさんによって。それはどうもあまりうれしいことではないんじゃないかなと考える。
手袋の毛玉、ニットのほつれ、靴紐の黒ずみ、そういったものも、もはや誰も見ていないとしても自分の五感に何かの信号を送り続けているので、だから、買い換える。そうやって購買行動を正当化する。
とかくいろいろなことを正当化して暮らしている。こうするには理由があるんだ、これを選んだからには論理があるのだと、誰に告げる必要もないケースであっても自分の中にはたいていなんらかの言い訳を用意している。そういう種類の臆病さと同居し、そういう種類の卑怯さに餌をやって飼い慣らす。
まだ正式に決まった話ではないのだが、ある有名な人と対談をしませんかという企画をもちかけられて、直感的に「うわぁ楽しそう」と思って、ひとまず近しい関係者の間ではやりましょうやりましょうということになった。もちろん今後の感染状況やらイベントスペースの都合やらによって左右されるのだけれど、たぶん実現するだろう。このタイミングでふわりと思い出したことがある。かつてぼくは渋谷パルコのイベントスペース「ほぼ日曜日」で写真家の幡野広志さんと対談をさせてもらった。あのときも会場に向かう道すがら、「ぼくは今日、あそこで対談をしていいんだ」という理由をいくつも考えて脳内の道具袋にしのばせておいた。中盤のきついダンジョンに突入する際に、「いのりのゆびわ」を預かり所から受け取って道具袋に大事に入れておくように。MPが足りなくなったときに備えて、あるいは、実際に使わないにしてもお守りのように。
稚内に本を売りに来た浅生鴨さんに会いに行ったときも、オンラインイベントでZoom越しに壇蜜さんと話したときも、ウェブコンテンツの取材で小籔千豊さんと出会ったときもぼくは、誰にたずねられたわけでもないのに「そうすることになった理由」を綿密に用意しておいた。実際、誰にもたずねられなかった。世の中の誰がどこで何をしていたからといって、お互いにそれに因果の調査などいちいちしない全放置時代。ぼくが何かの理由を語らなければいけないことはない。ぼくは何も説明しなくていい。わかっているのに、それとは別に、おそらくは自分の微調整のために、自分で自分のシグナル伝達経路を解き明かすようにぼくは行動の理由を用意して袋の中にストックする癖が止まらない。