2023年1月10日火曜日

謝罪

「ニセ医学の人」とTwitter上でバトルすることで、相手の炎上商法に付き合ってしまうのがイヤだ、という意味のことを、ぼくはずいぶん長いこと言ってきた。

あるいは、やさしい医療情報を丁寧に発信することをせずに、ひたすら世のあちこちから不適切な医療情報を見つけてきてはこきおろす、みたいなタイプのツイバトル医療者から距離をとってきた。

しかし、今になって、少し思うことがある。



最近、「根拠の乏しい医療を声高に語る人」や、「暴力的な言動で標準医療を否定する人」を眺めていると、どうも、そのような人たちの一部は、過去に医療によって大きく傷つけられた経験があったり、あるいは医療に関連することで家族や大事な知人とトラブルになったことがある人のようだとわかってきた。

全員ではないと思う。

本来、個別に見ていかなければだめな話だ。

しかし、個別に見るのはゆっくりやるとして、全体をざっと眺めてみると、少なくとも一部には、過去につけられた傷、あるいは今抱えている傷によって強い人間不信に陥っている人が混じっている。

ぬぐいきれない医療への怒りが、ニセの医学によって医療体制を攻撃するためのモチベーションになっている。

そういう人たちのアカウントのホームを見に行き、ツイートを眺めると、医療にかぎらずあらゆる対話が攻撃によって組み立てられていたりする。誰かを殴ったことによる作用と反作用を使って、もっぱら意思疎通を試みている。

対人関係のコミュニケーションを怒りによって駆動している。



そういう人たちをぼくらが一斉に、「迷惑だなあ、いかに傷があるからって周りに攻撃性を向けられてはたまらない」という目で見て、距離をとれば、その人たちは孤立していくことになる。

しかし、どうも、攻撃的な人たちは今のところ孤立していない。

なぜか?

それは、一部の攻撃的な医療従事者が、彼らに対して「暴力で返す」というタイプのコミュニケーションを行っているからではないかと思う。



武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いを「両軍のコミュニケーション」と呼ぶなんてとんでもないことである。なにせそこでは人が死んでいるのだから。しかし、最良の形でのコミュニケーションではもちろんないにしろ、戦争もまたひとつのコミュニケートのかたちだ。結果的に互いの断絶をより深める結果になろうとも、殴り合っている間はそこに、差し出すモノと受け取るモノとの交換が成り立っていると、(残酷にも)言うことができる。



ぼくはかねてより、

「ニセ医学の人たちと真っ向から殴り合うなんてなんの効果もない、彼らをそれで黙らせることはできないし、むしろ周りに『こんなニセ医学もあるんだよ』と広告するような逆効果すら生まれている」

と言ってきた。この意見は今でも変わらない。

しかし、この意見とはまったく別の観点で、ニセ医学 vs 標準医療の戦いにはある意義があるのかもしれないと思う。

それは、「ニセ医学の人たちを本当の意味で孤立させない」というものだ。

攻撃的な人への、ケア。

多くの人びとを不適切な医療に巻き込み、公衆衛生をぐらつかせ、社会的には犯罪とすら言える行動をしている人たちを、一部の医療者たちは殲滅しようとして毎日ボコスカ殴りかかっている。しかしそれがこれまで実を結んだことはない。近藤誠さんもとうとう自説を保ったまま鬼籍に入った。あれだけわかりやすい悪の権化すら医療者たちは倒すことができなかった。

でもその無益な(とぼくが断言していた)戦いによって、じつは「ニセ医学の人たち」は殴り合いというコミュニケーションを続けることができ、彼らは真の孤独に追い込まなくて済んだのではないか、という、極めて残酷な予想を、ぼくは頭の中から追い払うことができないでいる。



世界と没交渉になることは怖い。人間の尊厳にかかわることだ。

ワクチン忌避を煽り、検査、診断、治療に対する不適切なデマを流し続ける人であっても人間だ。どれだけ社会に悪影響を与えた人であっても、社会から「ロックダウン」していいとは、今のぼくは思わない。だったら一部の、攻撃していることで自分の脳が喜ぶような器質を有する医療者たちの戦いは無駄ではなかったのではないかと考えることができる。ぼくは攻撃的な医療者たちに謝らなければならない。あなたがたのおかげで、反科学、反医療的な人びとをケアすることができたのに、これまでずいぶんと失礼なことを言い続けてしまったことに対して。そして感謝しなければいけない。あなたがたのケンカのおかげで、ニセ医学の人たちも、最低限度の生きる権利を確保できたのだということに。