患者の体の中からとってきたものをプレパラートに加工する。それを顕微鏡で見るのが病理医の仕事だ。
この「プレパラートに加工する」の部分は臨床検査技師という専門職が行う。むかしの病理医はプレパラート作成をできる人がいたというが、ぼくはできないし、ぼくと同世代の人でプレパラートが作れる人もほとんどいないだろう。高度な技術なのでそこは分業した方がいいのである。素人が作ったプレパラートは汚くて見づらいし……。
なぜ素人が作ると汚くて見づらくなるかというと、もちろん、「熟練の技術」がいくつか使われているからだ。
髪の毛の何倍も薄い、4 μmという薄さに組織を切る「薄切」と呼ばれる作業は、カンナがけのような工程で行われる。このカンナ=ミクロトームをうまく使うのが難しい。パラフィンというロウに埋め込んだ組織をミクロトームというおばけカンナでシャッ、シャッと切って、ぺらりとはがれてきた薄い切片をピンセットでそっとつまんで水の上にうかべる。すると水の上で薄い切片がハラッ……と少し広がる。ここがくしゃっとなると台無しだ。そのあと、ガラスにそっと拾い上げて、温めながら少し乾燥させる。和紙づくりを思わせるような機材にかこまれて、マクロとミクロの接点みたいな部分で標本作製が行われる。
さて、ちょっと想像していただきたいのだけれど、硬いところとやわらかいところが混ざった検体をシャッと切るのは大変なのだ。フワッフワッのシュークリームの上にブドウをひとつぶのせ、ブドウとシュークリームをいっぺんにナイフで真っ二つに切ることを考えて欲しい。ブドウに刃物をのっけて力を入れたらシュークリームがべちゃっとなるであろう。こういうときはまずシュークリーム側から切っていって、シュークリームを切り終えたあとにブドウに力を入れればいいじゃん、みたいなことを、我々はモノを切るときに無意識にやっているのだけれど、これ、ブドウがシュークリームの上にのっかっているからできる技であって、ブドウとシュークリームが交互に、ミルフィーユ的に混じっていたらそうもいくまい。ていうかブドウとシュークリームって味の組み合わせがよくない。なんでブドウにしたんだ。関係ないけどイチゴ大福を考えた人は天才だと思う。
組織片もただそのまま切るだけだと、硬いものと柔らかいものとが入り混じっていたときにうまく均一に切れない。そこで、先ほど少し話したパラフィンというロウに埋め込む。このとき、ロウは組織の周りだけではなく、組織内部にも浸透させておく。ロウ人形状態にするのだ。そうすれば、組織片は中からも外からもロウに支えられて、わりと硬さが均質になるので、切りやすくなる。
この「組織片をロウ人形化する」際に、さまざまな液体を使用する。パラフィンを組織にしみ込ませるにあたって水分が多いとジャマなので、まずはアルコールに付けて、検体の中の水分をとりのぞく。しかしアルコールもパラフィンにとってはジャマなので、別の有機溶媒を用いて今度はアルコールをとりのぞく。だったらなんでアルコール使うの! とツッコミたくなるが、この順番でやらないとうまくいかないのだ。念入りに複数の溶液に浸ける過程で、組織の中からは水分や油分が浸みだし、かわりにその部分にパラフィンが入り込んでいく。マニアックな豆知識だが、プレパラートを顕微鏡でみたときに、丸い細胞膜につつまれた泡のような空隙があったら、それはもともと脂肪があった場所である。アルコールやキシレンに次々と浸しているうちに脂肪が流れ出してしまったところが空間として白く残るのだ。
化学の実験の手順みたいなことを延々と読まされて朝からうんざりした人もいるかもしれないが、病理医はこういう内容を覚えておかないと、顕微鏡を見たときに、「ここなんで穴が空いてるんだろう? そうか! この病気は細胞を穴だらけにするのか!」みたいなとんちんかんなことを言い出す。顕微鏡で見えているものは、プレパラートを作る過程で本来の組織がすこしだけ成分変化したものだということを忘れてはいけない。「ワクチンを打ったあとの組織を顕微鏡でみたらここに血栓がこんなに!」という写真をインターネットで見つけてどれどれと見に行ったら血栓ではなく動脈硬化の石灰化、みたいなことがあった。ただ見ればいいってもんじゃない。理屈を知らないと意味が浮かび上がってこない。見たいように見るというのは不誠実だ。本来の姿を脳内で補完しながら見てこその顕微鏡なのである。