あるとき誰かが何かを感じたとして。
その感情そのものを余すところなく言語化したものよりも、誰かがそれを「感じた瞬間の情景」を丁寧に描いたもののほうが好きである。
「何を感じたのか」が直接書かれていなければいないほど、その人はどう感じたのだろうと思いを巡らせている時間が豊かになる。
感情が直接描写されていない以上、「なるほどこういう気持ちだったんだな」と確信できることはなくなるが、「こうだったのかもしれない……」と長く続く余韻のようなものを楽しみ続けることができる。
あるいは、筆者の横に立って、同じ風景を見ながら、微妙に違うことを考えつつも時間を共有している、そんな状況こそが好きなのかもしれない。
でも、ぼく自身はそういう文章を書けない。書かないのではなく書けない。本当は書きたいのだが、うまくいかないのだ。
何かを感じたら、どう感じたかを自分の言葉でどんどん書いてしまう。
情景を書くにしても、結局、その情景のうちどれが脳に届いたか、それがなぜ自分の心を揺らしたのかを書いてしまう。
だらしないな、と思う。
本当は読んだ人に勝手に思い浮かべてもらうほうがいいのだ。でも、わかっていてもできない。
誰かに横に立ってもらうような文章を書きたいと何度か思ったことがある。でもできない。
ぼくの感情をぼく自身が言語化して確定することでかえって狭めてしまう。ぼくの感情に本来存在したはずの、言語化できない部分を誰かに探ってもらうことを放棄している。拒否しているのかもしれない。拒否しているのは他人の解釈だけではなく、後に自ら振り返ることも含めてなのだ。未来の自分からの再解釈すらも拒否している。ほんとうは、過去の自分は違うことも考えていたかもしれないのに、感情のうち言葉が追いついた部分だけが記憶に残り、言葉が追いつかなかった部分の感情が捨てられているから、「そのとき」の自分の感情に追いつけることがないし、横に立つこともできない。
ブログが続いているのはなぜだろうと考える。誰かが見ていることがモチベーションになって続いているというのならば、できるだけ自分の理想とする文章に近いものを書けばいいし、実際に書こうと努力してもいるのだけれど、自分の感情を端からどんどん言語化してしまうクセが抜けない。2回に1回「病理の話」と名付けて医学書に載っているミニコラムくらいの情報を書き殴っているのもおそらく「自分の感情以外のものを書く訓練」という側面があったはずだ。しかし油断すると病理の話にすら自分の感情が書き記されていることがあって驚く。ほら、今また、「驚く」と書いてしまっている。
読みたいものと書きたいものが一致しない。余白と余韻の豊かなものを読みたいのに、キータッチをはじめるとぼくの指はいつも脳の中をまさぐって、この事実がどのシナプスを発火させたのか、何と何がつながって何を新たに思い付いたのかを細部まで言語化した状態で書き留める。その瞬間、はっきりアドレナリンが出ている。誤作動ではないかと思う。「なぜか」を追究する。感情のカスケードを上流に向かって辿る。遡っている間中ずっと感じたことを書き留めながら。
昨年よいと思った本、奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』にしろ、豆塚エリ『しにたい気持ちが消えるまで』にしろ、著者たちは自身がどう考えたのかを直接的にはあまり書いていない。だからぼくは著者と違う時空にいながら隣に立って同じものを見るように何かを感じ続けることができた。同じようなことができたらどれだけ素敵だろうかと思う。わかっているのになお自分の心ばかりに光を当てている。誰かに探ってもらうことをせずに。それほどまでにぼくは他人を信用していない、とまとめるのは乱暴だろうか。当たらずとも遠からずだった感情が言葉によって固定されていく。