読んでいる最中に「これもう知ってる……」と感じてつまんなくなってしまうというのがその理由だ。
ぼくが本に書いてきた内容は、そもそも日頃から頭の中でよく考えていたことばかりである。それをさらに、執筆や編集作業中に何度も読み返すから、余計に脳に焼き付いてしまっている。発想や展開がわかってしまっており驚きようがない。読書の楽しみの何割かが削がれてしまっているということだ。
一念発起して読み始めても、四分の一も読み進めずにがくがくと居眠りしてしまう。一般向け書籍はもちろん、教科書であってもだ。仕事で病理の説明をするときに「この話は前に本に書いたなあ……」と思って自著を探って読んでいるうちに寝てしまう。困る。
自著を読みながらぐっすり寝ている姿を人にみられようものなら、「よっぽどつまらない教科書なんですね」などと言われそうだ。くやしい。本当はおもしろいのに!
……。
じつはこの、「本当はおもしろい」の部分を疑うこともあって、それが一番ぞっとする。
執筆者であるぼくの記憶をぜんぶ消して、いち読者として自分が書いたものを読んだとして、はたして、「うわあこの本には知らないことがいっぱい出てくる、おもしろいなあ!」とか、「なんて読みやすくてわかりやすい本なんだ、頭にスイスイ入ってくるぞ!」と、思えるだろうか、ぼくの書いたものは。
そこを疑ってしまうことがある。そうなるとドツボである。
依頼してくれる人がいるからには、いちおう商業のレベルで通用する文章力は持っているのだろうと信じたいが、もはやよくわからない。「過去に本を出しているからには書けるだろう」くらいの感覚で依頼してくる人もいたかもしれないし、「ツイッターでフォロワー数が多いから売れるだろう」と、文章や内容とは関係ない部分での依頼だってあったはずだ。
ぼくがこれを読んで寝てしまうのは、「内容を知っているから」ではなくて、「文章が眠たくなるから」ではないのか……と、ときどき自分を疑っている。
実際に10代、20代のころのぼくは、二回りくらい年の離れたおじさんおばさんの書く文章を、どこか眠たいなあと感じていたのではなかったか。もっとわかりやすく書けないのか、もっとフランクに書けないのか、あるいは逆に、「若者に必要以上にこびやがって、気持ち悪い」などと考えていたのではなかったか。その頃のぼくが何度も何度も新陳代謝して、四十路も半ばのぼくの中には当時のおもかげも記憶もほとんどなくなってしまっていて、そのぼくが書いているものが自然と「中年の眠たい文章」になっていない保証がない。
だから自分の書いたものを読み直す。できれば読みづらさに気づきたい。もっと読み手にわかりやすく感じ取ってもらえるような文章を書きたい。でも途中で寝てしまうのである。理由はもちろん、「自分で書いたものは展開が読めるから」……。
そうだろうか。
ぼくはかつて、同じマンガを何度も何度も読み返す子どもだったはずだ。ピッコロのセリフもリルルのセリフもアインシュタイン博士のセリフも覚えるくらい何度も読んで楽しんでいた。それがなぜ、自分の本だとできないのか。もっとやり方があるのではないか。もっとうまく書けたはずだったのではないか。次に書く機会があったら「自分であっても寝ずに最後まで一気読みできる」ような本を書きたい、そう思いながらあの本もあの本も書いたのだけれど、残念ながら今のぼくはどれを読んでも30分くらいですやすや眠ってしまうのである。