2023年7月6日木曜日

湯治の旅

30代のころは、どこかの地域でひとつ講演をすると、それを聴講してくださった方がほかの地域でぼくを「おすすめ」してくださって、「うちでもその話してくださいよ」と次のお声がかかって……みたいなことがたまに起こっていた。

大阪でバリウム画像と病理組織像の対比に関する講演をしたら、それが話題になって首都圏の技師さんたちの知るところとなり、横浜に呼ばれて同じ内容をしゃべって、そしたらまた話題になって、新潟で研究会をやっている幹事の耳に留まって……という感じである。

仕事が仕事を、旅が旅を連れてくるような感覚だった。

もっとも、旅とは言っても観光するほどの時間はなく、フォロワーに教えてもらったおみやげを買って帰るくらいのものであったが、振り返ってみるとあれはあれで楽しい旅だった。




ところがここ数年、お察しの理由により講演の多くがオンラインになった。旅ができなくなったことに多少のさみしさはあるけれども、移動の時間を気にせずに職場のデスクから全国に向けて発信できるのだから、便利でしょうがない。

研究会を主催する側としても、講師に交通費を払わなくていいし、懇親会に連れて行く必要もないのだからいいことが多い。会場を借りて人を入れつつ、オンラインでもその様子を放送するいわゆる「ハイブリッド」方式だとお金がかかってしょうがないのだけれど、リアル会場をばっさりあきらめてオンラインだけに注力すればお金はむしろ安上がりになる。

というわけでオンラインバンザイでずっとやってきたのだが、最近、そろそろオンラインやめてくれないかな、と思うこともちらほら増えてきた。

その一番の理由は……旅をしたいから……ではない。

講演のプレゼンを毎回新しく作り直さなければいけないのがしんどいからだ。



Zoomの講演は全国どこでも聴ける。すると、熱心な聴講者は、たとえば首都圏に住んでいたとしても関西や中四国、九州、北海道の講演までぜんぶ聴こうとする。

となると、昔のように「がんばって作ったこのプレゼンを1年間かけてあちこちでしゃべろう」というわけにはいかない。

それは申し訳ないなあと思うからだ。「使い回し」がばれるのが恥ずかしいという気持ちもある。

講演の回数は昔と変わらないが、プレゼン作成の数が数倍になった。



ぼくの病理学に関する講演は、基本的にスライドの枚数が100枚以上になる。1時間の講演だと200枚前後になっていることが多い。「多い!」と感じられるかもしれない。たしかに普通の講演であれば、枚数が多すぎるだろう。しかしこれは「病理の講演」としてはまあ普通の枚数だ。

実際の患者を撮影したCTや内視鏡、超音波の画像をセレクトし、病理の顕微鏡で撮影した細胞の写真と照らし合わせる。複数の「撮り方が違う写真」を見比べながら、患者に何が起こっているのかを統合的に考えていく。

このようなスタイルでは、いかに多くの写真をストレスなく、ストーリーも感じさせるようにプレゼンに叩き込んでいくかが重要だ。とはいえ上限なく写真を入れればいいというものでもない。一切編集しない場合には1時間で600枚以上の写真を入れることも可能だが(「診断」にはそれくらいの情報量が含まれている)、そこをがんばって減らして減らして150枚にする。けっこう時間のかかる作業だ。


いわゆる「講演」と聞いて多くの人がイメージするのは、自己啓発的にインパクトのあるフレーズを画面の真ん中においたり、ベン図のあちこちになにやら書き込んだりして、ひとつのスライドに10分かけて哲学を説明していくようなものではなかろうか。

あるいは、大学の講義のように、箇条書きで要点をずらずら書いた本の目次のようなスライドを背景に偉い学者がずっと学術を語る、みたいなイメージをお持ちの方もいるのではないか。

こないだ聴講したある方の、「医師のキャリア」に関する講演では、1枚のスライドに3行くらい箇条書きで、その人が何を思ったのかが断片的に書かれていて、それを背景に講師がひたすら自分語りをするというものであった。なるほどおもしれえなと思ったし、自分のスライドの労力とつい比べてしまいそうになって、「そういうものではないのだ、そういうことではないのだ」と自分の旧皮質を抑え込むのにちょっと苦労した。あれで講演料をもらえるんならいいよなあ……いや違うか……こうやって短いフレーズで大きなインパクトを聴衆に与えられるところにたどり着いているその人がすばらしいということだ……。

でもまあぼくの求められている仕事は、「ぱらぱらとめくって考える、居酒屋のメニュー」みたいなものだ。さまざまな写真を行きつ戻りつしながら病態を深める。それをやってほしいから呼ばれる。それがいいから仕事になる。

さあ大変だ。



理想を言えばすべての講演で違うプレゼンを使いたい。でも、さすがに、時間が足りない。だから結果として、「プレゼンは同じなのだけれどしゃべり方を少し変える」とか、「前回別の地域で同じスライドをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はこちらの地域の若手のために同じものをお話しするということでご容赦くださいと言い訳をする」など、なんかぐちゃぐちゃと言い訳をしながら乗り切ることもちらほら。

悔しい。

全身全霊で作り込んだスライドには思い入れもあるから、ほとんど内容は一緒なのだけれどなんとか切り口を変えて使い回す姿勢自体が悪いとは思わないが。

悔しい。

あと、同じプレゼンを使い回すと、近頃はしゃべっていて飽きてしまうようになった。この話は前回もしたよなあと気づいたあたりで、しゃべりが少し雑になる。すると初見の人にとっては話がわかりにくくなる。

現地で聴衆と顔をあわせてしゃべっていたころは、ぼくもまだ経験が少なかったためか、「お決まりのフレーズ」が確定演出になるところまでは言っていないというか、毎回違うお客さんに向けて「今日は通じるか!? 今日はどうなんだ!?」とチャレンジをくり返す、みたいな雰囲気があった。「お決まりのフレーズ」のところでみんながどういうリアクションをとっているかを、会場のうなずき方や、漏れ出る声から察するのも大切だった。リアクションが微妙だと、「あっいけね、いつもより早口になってるな。いかんいかん。もう一度やり直そう」みたいな微調整をかけたりもした。

しかし、オンラインでは聴衆はほぼ全員が黒バックにアカウント名でマイクミュートである。うなずくところも笑うところも感じ取れない。自然とプレゼンは「巻き気味」になるし、ぼくは結局、年を経て講演になれてしまったのだろう。昔ほど「今日はどうなんだ!?」とは思わなくなった。「今日もまあ及第点まではこうやってがんばればいいんだよな」くらいの感情がでかくなってきている。

悔しいというのもそうだが……これは……摩耗してきているのかもしれない。それがさみしいのかもしれない。



早く「講演の旅」に戻らないかな。そうしたらまた、新しい刺激を受け取ることができるかも。でもまだまだ、オンラインの会は多い。今日ももっかのウェブ講演に向けて新しいスライドを作っている。



新しい講演をするたびに、いつも反省をしてきた。これをおもしろいと思っていたのはぼくだけだろうか? 前回の話のほうがおもしろかったなとがっかりされたのではないか? たくさんの「いやな刺激」を受けて、それを吸収したり反射したりしていくうちに、ぼくは少しずつ盤石になってきた。

その盤石さがまた腹立たしい。

ぼくは確実に盤石になった、それはさみしいことだ。どんな困難な講演もなんとか乗り切れるようになってしまった。昔は、そうではなかった。昔は、どれも毎回一発勝負の、ヒリヒリするような、失敗と成功とが未確定の状態で、講演の前には必ず足も声も震えていたけれど、今はそこまでではない。このままだと、ぼくはいろんな角度で講演がつまらなくなってしまう。


ああ、ここまで書いてふと思ったことなのだけれど、オフラインで同じ講演を使い回していたというのも、昔はそれでよかったけれど、今のぼくにとってはつらいかもしれない。そうか、旅に戻ればいいというものでもないのだ。旅の暮らしが戻ってきたとして、昔のように、このプレゼンは1年間使い回そうという気持ちに戻れるかというと、どうも戻れない気がする。

そうか、そうか、ぼくはどっちにしても、昔よかれと思っていたぼくにはもう戻れないのだ。ヒリヒリジワジワ苦労し続けなければ飽きてしまうし、新天地でのチャレンジを理由に持ちネタを使い回していた若さからは離れてしまった。なるほどな。オンラインかどうかなんて本質ではないのだ。ぼくは年を取り、偉くなってきて、そういったもろもろのぬるま湯にどっぷり浸かって安心していいよと言われつつある立場がいやでいやでフルチンのまま外に飛び出して走ろうとしているということなのだ。パンツははいてください。