2023年7月27日木曜日

利己的な因子で

あたりさわりないことを言ったりやったりしているとだんだん埋没していく。緩やかに人生の坂を下る。


それが気にくわない人をたまに見かける。彼らは、「法律」や「空気」によって発露を禁止されている暴力衝動を、言葉という賛否両論ある伝達道具を用いて、Twitterのような悪意拡散ツールにかけあわせ、実際には殴っていないぞといいながら実際に殴っている。そうやって自らが埋まり混んだ泥の中から顔と拳ひとつだけ突き出してみせ、ほら、ほら、まだ目立てる、みたいなことをやる。


そういうやり方は下品だと思う。だから距離を置き、なおいっそう、あたりさわりのない方向に向かってゆるゆると下る。そういう感じの毎日を過ごしている。




今年の春に日本医学会総会の仕事がひとつ終わった。この頃のぼくはほかにも日本病理学会や日本超音波医学会など、いくつかの仕事を抱えていたのだが、特に日本医学会総会の仕事の負担が大きかった。個人で具体的にやらなければいけないことはさほど多くなかったのだけれど、毎日考えることがいっぱいあって、そういうのが半年くらい続いていた。なので、多くの仕事を、「できれば日本医学会総会の仕事が終わるまで待ってください」と言って先延ばしにしてもらった。


そのはねかえりが今になって来ている……と書こうと思った。でも冷静に考えると、今はそこまで仕事の量が莫大には増えていない。たしかに告知が必要な仕事の成果などがぽろぽろ出てきており、対外的な仕事はコロナ前と同じかそれより少し増えたかなと思うが、にしても、思っていたほどではない。自分の仕事のスピードが速くなっている分、むしろ帰宅が早くなっている日もあるくらいだ。あれ、こんなものだっけ、もっと猛然と忙しくなると思っていたなあと思って、あらためて医学会総会開催直前のメールを振り返って見ると、「時間をおいてあらためてオファーさせていただきます」と言ってきた人の半分くらいがそれっきり仕事をぼくに振ってきていないということに気づいた。

ああ、これはつまりタイミングを逃したということなのだろう。せっかくできかけた縁をつぶしてしまった、と、悪く考えることもできるが、そこまででもなく、一瞬交わるはずだった二つの矢印が微妙にずれて「ねじれの位置」になってそのまま互いに違う方向へ飛び去っていった、くらいの感覚である。さらに強い縁があればまたお目にかかることもあるだろう。ただ、ぼくはなんとなく、「一度声をかけてくれた人はなんとなくまた声をかけてくれるんだろうな」と思っていたらしくて、肌の奥にあるその気分が今、肩すかし感となって表面ににじみ出てきているのだろう。


それでもオファーをいただくときはいただくが、講演にしても、解説にしても、自分でやったほうが早い仕事を若い人たちにそのままパスする機会が増えてきた。この「仕事振り」によって、2年後くらいにぼくはポカンとヒマになるのではないかという予感もある。臨床画像・病理対比の仕事、病理AIの仕事、学会広報の仕事。自分でどこまでやれるかとずんずん潜り込んで、対比について言えば15年くらいを費やしたが、そろそろ総決算というか、「このテンションでこれくらい取り組めばこれくらいいいものができる」という感覚が身についてしまって、ここから先の成長は難しいかもしれないな、という気持ちが出てきた。ぼくはやれるところまでやれたのだろう。これ以上は次のチャレンジャー達にチャンスを渡すほうがいいのだと思う。AIにも飽きた。学会広報は……もうちょっと泥をかぶったほうがいいかもしれない。大事な仕事だがキャリアの得にならないので若い人もやりたがらないだろう。そういうのは自分でやり続けたほうがいいかもな。


ところで、SNS医療のカタチのメンバーを増やしたり更新したりしてはどうかというアイディアについて、メンバー4名といろいろ考えたことがあった。結局、「この取り組みはぼくらができなくなったら解散でいいんじゃないの、若い人たちは若い人たちで新たにもっといいものを作るだろう」と誰かが言ったときに、まあそんなもんだよな、とみんなが薄く納得して手打ちになった。つまり「若い人に渡す」だけではなく、「ぼくのところで引き取って引き上げる」という方向のまとめ方である。


飛行機は着陸のときが一番難しい、みたいなことを言う人もいるが、本当に難しいのは離着陸や水平飛行をトラブル込みでぜんぶ責任もって運用できるパイロットを育てることだ。優秀なパイロットさえいれば、「一番難しいこと」もなんだかんだでやってくれるわけで、目標はいつだって、難問に立ち向かっていく勇士の数を増やすことにある。教育をしよう。教育しかできない。まだ野心があったとしても、まだ欲望があったとしても、自分の成長に費やしてきた利己的なエネルギーをそのまま、利己的な香りをまんま残したまま、あくまで自分のために教育に注ぎ込むのだ。