2018年2月28日水曜日

リバティーアチャリルー

くるりの曲を聴きながら雪を眺めていた。まだかろうじて仕事中だ。少し日暮れが遅くなった気がするがもう外は真っ暗である。窓ガラスには、油断するとぼくの顔が映る。しかし人の目というのはよくできていて、ガラスに映り込んだ自分の姿をきれいにクリーニングし、駐車場のあかりに照らされるふわふわとした雪だけを映像として拾ってくれている。

たとえばここに一眼レフがあってもぼくはガラス越しの雪をうまく撮れないだろう、ということを知っている。目のピントは意識的にずらすことができ、かつ、ぼうっとしていれば「どこにもピントが合っていない状態」を続けることもできる。

「窓ガラスという本来自然界には存在しなかった透明な板が、内外の明度差によってほぼ鏡のようになっている状態」を、ぼくの脳と眼球はきちんと理解し、計算して、ピントをガラスの向こう側にあわせているのだなあ、と、そんなことを考える。

ばらの花が終わる。ジンジャーエールの味をおぼろげに思い出そうとする。口に何も入っていないのにジンジャーエールの苦みと炭酸の圧迫感とがわずかによみがえる。

ぼくらが生涯かけて生み出すものが、五感の精度を超えることはどれだけありうるのだろうと思う。


バーチャルリアリティという言葉があるが、バーチャルなリアルを「おお、リアルだなあ」と感じる脳はだいぶ高性能なのではないか。それはリアルではないのにリアルだと思い込める、肯定的な錯覚を脳は許容しているのだ。ぼくは、VRということばは、世界を自分のサイズで語り大きく笑う子供と同じだと思っているし、子供の周りには常に「それでいいんだよ」と目をほそめて見守る大人がいるものだ。自由で楽しそうな音楽が鳴り続けている。




2018年2月27日火曜日

病理の話(174) さあ内視鏡のこと

さあ内視鏡の話をしよう。

ここまで、X線・CTMRI超音波(エコー)の話をしてきた。

これらはすべて、「断層写真」を得るためのものだ。体を何らかの方法で「輪切り」にして、内部を調べようとする検査である。

しかしまあ人間というのはとにかく病気を直接目で見てみたいものなのだ。

だから、内視鏡がある。内視鏡とはつまり、「ふつうの人間がのぞきこめないところをのぞきにいくカメラ」のことである。

口や鼻の穴からカメラを入れれば、食道とか胃、十二指腸の粘膜をみることができる。

十二指腸の中に開口している「ファーター乳頭」の中へ潜り込んでいけば、胆管・膵管といった構造の中ものぞくことができるそうだが、これらの管はかなり細いので、まだそれほど実用的な観察はできない。

一方で肛門からカメラを入れれば、大腸の粘膜をみることができるし。

口から入れたカメラを気管の方にすすめていくと、肺の中に通っている気管支の粘膜をみることができる。

お腹に小さな穴をあけて、そこからカメラを入れれば、肝臓とか脾臓などの内臓の表面をみることができる。これが腹腔鏡(ふくくうきょう)。

胸に小さな穴をあけて、肋骨のすきまからカメラを入れると、肺の表面をみることができる。これは胸腔鏡(きょうくうきょう)という。

けっこういろいろ見ることができるのだ。



ただ、直接見られるから「最強だ」とは言い切れない。ちょっと考えてみよう。

たとえば胃の表面になにかが見えたとする。

このなにかが、胃の中にモコモコと「隆起して」育っていたら、その大きさとか色、カタチをしっかり見ることができる。

けれど、病気が胃の粘膜にモコモコ隆起するのではなく、胃粘膜から下の方にズブズブ潜っていたらどうか?

表面から見ただけでは、粘膜の下にどれくらい潜り込んでいるのかは、なかなか判断が難しい。



マンハッタンの上空にドローンを飛ばすと、高層ビル群や自由の女神がにょきにょきとはえているのがよく見えて、さぞかしきれいだろう。

けれどドローンを飛ばしても地下鉄の走行は追うことができない。

それといっしょだ。



内視鏡を用いた画像検査は、「直接みにいくもの」ではあるのだが、以外と病気そのものを直接みることができないことも多い。

むしろ超音波をあてて中を見てみたいことはある。CTやMRIのほうがかえって、物質の内部性状をじっくり評価できることもある。



では内視鏡はあくまで「表面の変化」だけをみる機械なのかというと、そうではない。

たとえば地中をモグラが掘り進んでいくと、土の表面が「モコモコ!」と変化することがあるだろう。

粘膜の下にもぐった病気は、そこで「硬さ」と「厚み」をもつ。これが表面から見えることがある。





診断が上手な内視鏡医をみていると、まず第一に、

・「ウォーリーを探せ」がうまそうだ

と思う。周囲と比べてわずかに違うものを見つけ出す能力が高い。

また、

・「かくれんぼの鬼」がうまそうだ

とも思う。カーテンのわずかなゆれ、クロゼットのドアがわずかに開いていること、ふとんが少し盛り上がっていることにピンときて、その向こうに何かが潜り込んでいないかと推測する能力が高い。




直接みてみたいのは人の情というものだ。

しかし、直接みられないときに工夫して、「間接的に」みることこそが「医術」であるといえる。内視鏡医とて例外ではない。






画像の話をずっとしてきた。

次回は、「身体診察」の話をしよう。医者が手や目を用いて、患者をみたり触ったり押したり叩いたりすることで、何がみえるか。

間接的にみることが医術だと書いた。診察とはまさに医術なのである。

2018年2月26日月曜日

2倍にするとおおりんりん

連日タイムラインがスポーツの話題にみちあふれていてとてもうれしかった。

オリンピックや各種ワールドカップが開催されると、タイムラインはとても華やかになる。

報道はときに、競技選手の内情に勝手に迫ったり、作り込んだインタビューを何度も流したりするので、オリンピックの直前になると、

「ああまた芸能ニュースみたいなノリでスポーツを扱うんだな……」

という気持ちで少しつかれてしまうのだけれど、いざ、スポーツがはじまると、将来が読めず過去とも切り離された「今」を生きる選手達の本気の熱量が、確実に瞬間・瞬間に燃え上がっているのがわかって、雑音が少しずつ聞こえなくなっていって、とてもいい気分になる。



スポーツをやっている人たちが、競技場の外でしゃべることはあくまで一般的な人間の脳からアウトプットされたものだ。ときおり「ん?」ということもまじる。元スポーツ選手、スポーツ解説者、スポーツをみるだけの人、みな同じだ。人のいうことは「うん」と「ん?」のくり返しである。「プロ発言者」というのでもないかぎり、しゃべること、理念、誰もが穴だらけである。

けっきょくぼくらは全員穴だらけなのだ。気にくわないこともある。おかしいなと思うこともある。もう少しなんとかならんのかというときもある。けれどそういう脳なのだ。画一的な思考では適者生存できなかったぼくら生命は、とにかく、多様に生まれて多様に語るようにできている。



だからスポーツの祭典が開催されるといちいち怒っている人のことも、まあ、わかる。次のオリンピックに向けてはやくも不要論をぶちあげる人だってこれからまた元気になるだろう。ぼくらは人間だから、理論は必ずどこかでぶつかるし、誰もが必ず誰かに「ん?」と思う。




それでもスポーツをみている瞬間だけは、そういう過去のしがらみとか、未来の予測とかを忘れて没頭できる。ぼくはスポーツが好きだし、オリンピックが終わってしまうのがやっぱりすこしさみしいなあと思っている。

2018年2月23日金曜日

病理の話(173) ここでエコーのこと

さて今日は超音波診断の話をする。エコー検査という。

エコーとはよく聞く言葉だが、きちんと意味を取るならば「やまびこ」であろうか。音をぶつけてかえってくるやつが「エコー」だ。

CTは影絵だった。後ろから光をあてて、前からみる。

MRIは影絵ではない。音を聞いて鍵盤を思い浮かべるような複雑な思考。内部の物質、特に水分量をはかるのに力を発揮する。

超音波は……前から音をあてて、前にはねかえってくる「エコー」を調べる。影絵とちょっと似ているかな?




使っているものが(超)音波というのがポイントである。音波は、我々が直感的に動きを追えるくらいの「遅いスピードの波」だということに注意する。

光のスピードなんてのは、瞬間的すぎてぼくらには何が起こっているかちっともわからない。しかし音波であれば、日常レベルでその波のさまざまな変化をぼくらは無意識のうちに経験している。

その代表が救急車のサイレンだ。近づくと音が高く、遠ざかると音が低く聞こえる、かの有名なドップラー効果。たかが救急車の40キロくらいの速度をのせるだけで、音がまるで違って聞こえるというのは、音速がさほど早くないから、と考えるとよい(物理の人には怒られそうだが)。

音波というのは、ぼくらが体感できる程度の「動き」があると、さまざまに変化する。

生体内で動いているものといえばなんだろう? 血流である。超音波を血流にぶちあてると、ドップラー効果を利用することで、血液の流速とか流れる方向をはじきだすことができる。



超音波はほかにも便利なことがいっぱいある。画像の解像度がCTやMRIと比べて段違いに高いこと。端触子(検査に使う、超音波を発する機会)がすごく小さくて片手で扱えること。手軽であること。X線を用いないため、放射線と聞くと抵抗がある人や、胎児への影響を心配する妊婦さんなどにも使うことができること……。

まあ超音波ばかりもちあげるのもフェアではないが。ぼくはこの超音波検査がけっこう好きであるな。MRIも好きだけど。



さて、CT, MRI, エコー、いずれも一長一短があり、得意な解析分野がある。医療者はこれらをきちんと使い分けることで、体の中にある病気を少しでもわかりやすく解析しようとする。あの手この手で、体の「断面図」を手に入れる……。

ただ、医者のホンネをいわせてもらえば、「断面図」というのはどこまでいっても断面図なのだ。物体そのものを直接目で見て、触って、遺伝子の抽出でもできたら、そっちの方がわかりやすいに決まっている……。

だから、「内視鏡」が存在するのだ。次回は内視鏡の話をする。

2018年2月22日木曜日

腰痛の話をたまに書くのはもうしょうがないです

けっこうな運動をした翌日、あまり筋肉痛がこないときに、けっこう愕然とする。つまり筋肉痛は2日後にくるのだ。1日くらいではこないのである。つらい。

医学的に「筋肉痛が遅れてくる」ことはうまく実証できないようなのだが(されていてぼくが知らないだけかもしれないが)、とにかく体感的に、「年を取ると筋肉痛は遅れてくる」というのはもう事実でいいんじゃないかと思っている。

科学的にはうさんくさいんだけれども。

体感的に自分にとって真実であればよい。




加齢によって筋肉痛が遅れてこようが、実際にはそんな現象はないといわれようが、ぼくの体に対してぼくが考えることに真実も嘘もないのだ。ぼくがぼくに対して思ったことというのは、科学的にうそであろうと、勘違いであろうと、ぼくにとっての「Being」なのだ。それをそのまま受け入れるしかないのだ。




なあんてことを最近よく考える。

ヨーグルトを毎日食べてるからかぜをひかないんですよ、という人に、「科学的じゃないね」と伝えること、もはやむなしさしか感じない。どうでもいいじゃないか、そんな些細なこと。

テレビに出て、「ヨーグルトを食べましょう、そうすればかぜをひかないのです!」と宣言するのとは違うのだ。本人がそれで幸せならいいのだ。

ただ、毎日出勤してからデスクでヨーグルトを食べるといった人には、「歯磨きはきちんとしてね」と伝えたけれども。




科学と文学の関係は語り尽くされている。

ぼくはそれでも、他の人たちと同じように、いまさらではあるが、文学をもって科学をはかる作業をひとりこつこつやっていこうと思う。

先日、「マインドフルネス」なる概念をはじめて知った。まあうさんくさい、宗教だなあと最初は思った。どうもちょっと違うようで、けっこう科学が介入している分野のようだ。でもやってることはヨガっぽいのだ。ヨガとは違うとも書かれていたが。片岡鶴太郎を思い出したけれど片岡鶴太郎とは違うらしい。

マインドフルネスの特集について語った雑誌の巻末、編集後記がすばらしくて、ああまたあの敏腕編集者が書いたのだなあと思って最後に署名を見たら、別人だった。世の中にはすごい文章を書く人がやまほどいるのだ。ぼくはそれを受け入れて生きていかなければいけない。

あるものをあるがままに受け入れて、なんの感想も解釈も加えずに、ただそこにあるんだというココロモチで、しずかに呼吸をする。




「ただ筋肉痛だけがあるなあ」とスッと流せるようになるのはいつの日だろう。ぼくは明日、腰が痛くなる。

2018年2月21日水曜日

病理の話(172) せっかくだからMRIのこと

前回の「病理の話(171)」でX線とかCTの話をしたので、今日はMRIの話をする。

ちなみに次回(173)では超音波の話だ。(174)では内視鏡の話をしよう。(175)では……「身体診察」にしようと思う。





前回、X線を使った画像というのはいわゆる「影絵」であるという話をした。CTはずいぶんといろいろよく見えるが、あくまで高度な影絵技術である。

では、MRIも影絵か? というと、ちょっと違う。

MRIという機械は……「音を聞いて、ピアノの鍵盤の叩き方を思い浮かべる装置」と例えることができる。

なんのこっちゃ? と思われる方むけに、例え話をする。



ぼくは譜面があまり読めないが、これを読んでいる方の中には、「信号のチャーラーラーラーラララーを聞くと即座にドレミの譜面が思い浮かぶ」人がいらっしゃると思う。

そういう人は、電車のホームに流れるメロディも、焼きいも屋さんのいしやきいもコールも、サッカーのチャントですらも、譜面で思い浮かべることができると聞く。

この、「音を聞くと、譜面が思い浮かぶ」というのは、よく考えるとおもしろい。メロディという音声出力から、譜面という画像情報を思い浮かべるというのは、(使う五感のことなる)まったく違う現象同士を関連づけているわけで、実に高度な情報処理である。

さらに、「耳コピ」となると、なおすごいぞ。

「音を聞くと、ピアノの鍵盤の位置や、ギターの弦の抑え方が思い浮かぶ」。音という出力の元をたどって、「どの鍵盤をどう叩くか」という複雑な運動情報にたどりつかなければいけない。脳ってのはほんとにすごいよね。



さて、MRIがやっていることは、この「耳コピ」に似ている。

MRIの場合は音ではなく「電磁誘導による電場と磁場のゆがみ」をみていて、ピアノの鍵盤ではなく「プロトンという物質の密度や配列」を思い浮かべている、のだけれど。まあ高度な耳コピだと思えばいい。




X線をあてて、通過した・しなかったで影絵をつくるのとは根本的に違う検査である。

物体にあてるもの(磁場)と、そこから返ってくる情報(電場)と、情報をもとに組み立てる画像(プロトンの密度や配列など)の、すべてが異なっている。「影絵」ではない。




もともと、影絵というシステムはかなり優れているのだ。病気を診断するとき、臓器や病気そのものの形状(シルエット)をきちんと調べ、内部にどのようなものが詰まっているかを(X線の透過性の違いを用いて)きちんと評価し、造影剤によって血流情報まで調べることができるのだから。ほぼ完ぺきである。

一方で、MRIは、プロトンの密度や配列の違いを映し出す「だけ」の検査。しかもなにやら耳コピめいた複雑な処理をしている。

これでは、CTのほうが情報が多いではないか! と思ってしまう。




しかし、この、「プロトンの密度」というのが、実はおそろしく情報が多いのだ。プロトンの密度を調べることは、ざっくりと説明するならば「水分の量」を調べることにつながる。

水分の量?




豆腐を3つ置きます。

木綿豆腐と絹豆腐と高野豆腐です。

これらのシルエットはいずれも箱型。見た目にはいずれも「豆腐」。

だけど触感が違う。食感も違う。おしてじゅわっとかぼろっとする感覚も違う。

これらを一番端的に説明しようと思ったら、「水分がどれくらい、どのようなかたちでふくまれているか」を見るのがいい。

豆腐と人を一緒にするなって?

人体の60%くらいは水だっていうじゃないか。人体だって豆腐みたいなもんである。

たとえば体内に「結節(カタマリ)」があるとする。それは、がんかもしれない。膿(う)みのかたまりかもしれない。血が出てかたまったものかもしれない。これらがいずれも似たようなシルエットだったとき、MRIを用いると、その「成分(水分などの微妙な違い)」を読み分けることができる。まあCTでもある程度わかるんだけど。MRIをやると段違いに情報が増える。




CTとMRIで同じ臓器、同じ病変をみても、得られる情報はそれぞれ異なる。これらを統合して病気のありようを推測する専門家が、放射線科医だ。彼らはCTとMRIを使い分け、読み分けるプロである。そこまで必要なのかよってくらい病気の本質に迫りまくる。彼らと酒を飲むとおもしろいぞ。




次回は超音波の話をしよう。エコーというやつだ。

2018年2月20日火曜日

君と余だ

手紙がきた。

先日出した看護学生向けの教科書について、看護関係の会の偉い人から、「いい本だね」とほめられた。手紙にはそう書かれていた。喜びが伝わった。

手紙の最後に、

「献本してなかった人なんですけど……」

と書いてあって笑ってしまった。

でもまあそれはしょうがない、エライ人だから献本して読んでいただくというのもへんな話だ。



もう一通手紙がきた。こちらは宛先が筆で書かれている。あっ、と思った。

中学校時代に通っていた塾の、塾長先生だった。ぼくは当時、札幌市内にある私塾に通っていた。塾長先生はもう80近いはずだ。ぼくは引っ越しを繰り返すうちにすっかり没交渉になってしまったが、両親はきちんと毎年手紙のやりとりをしていたと聞き、先日思い立って年賀状を送り、さらに教科書を送りつけたのだ。

先生は本を読んで感想を書いてくれた。縁が再びつながった気がした。今度、お宅に遊びに行かせてくれと返事を送った。



手紙にはほかにもいろいろ書かれていた。だいぶご高齢で数々の病気を経験されているそうだが、唐突に「今度南米に行ってくる」と書かれており、相変わらずたいしたバイタリティの人だなあと笑ってしまった。

ぼくが中学生時代というと今から25年以上前となる。先生もまだお若かったが、すでに経営の一部は息子にまかせていらっしゃったはずだ。先生本人はもともと英語教育の人だが、ぼくがその塾に入ったときには象徴みたいな存在になっており、講義にはたまにしか出てこなかった。

塾のエースともいえる別の人気講師が授業をやっているときに、教室の前のドアが突然バーンと開いて、高笑いと共に塾長が入ってくる。やけに縦長の、とても大きな字で、それまでの授業の流れを無視して黒板にガッガッといくつかの単語を書く。そして、その単語とは無関係に、大きな声で語るのだ。

「最初に海外でハウアーユーと言われた時ぼくはわからなかったんだ。彼はハウアーユーとは言っていなかった。ハワイー、って言っていた。ぼくはハワイがどうしたんだろうと思った。けれど彼はハワイーと言いながらぼくの返事を待っているんだ。よく日本人はhow are youと言われるとなんでもアイムファインと答える、と揶揄されている。知っているか。試験でもhow are youの答えはたいていファインセンキューだ。でもあれはおかしい。ときには調子が悪いこともあれば機嫌が悪いこともあるだろう。そういうときはこう答えろ。

So so.

これで通じる。ニュアンスは表情でつくれ。そうそう。それでいい。So so. これでいいんだ。」

ぼくはこの「so so」が好きで、いつかどこかで使おうと、ずっと思っていたのだ。結局今まで一度も使ったことはないのだが。

先生は、初対面の外国人に元気かと聞かれて、まあ普通だねと答えながら砕けるような笑顔で笑い返すことができるカリスマの人だった。今度なにかおいしいお菓子でも持って行って、ゆっくりと昔話をしようと思っている。

2018年2月19日月曜日

病理の話(171) おもいきりCTのこと

医療者たちが診断に用いるCTやMRI、超音波、内視鏡(胃カメラ・大腸カメラ)は、一般に「画像検査」とよばれる。

これらを用いると、病気のいろいろがよくわかる。ただ、そのメカニズムについてはあまり世間には知られていない。


まずはX線の話をしよう。


俗にレントゲン検査と呼ばれるX線検査をバシャッとやると、”アニメのキャラクタが稲妻にうたれたときのような”、「影絵(シルエット)」がとれる。

いちばんわかりやすくシルエットが出てくるのは、ホネだ。まさにアニメで電撃ビリビリやったときのような感じでうつる。でも、シルエットになるのはホネだけではない。

脂肪、筋肉、あるいは臓器。体の中にあるさまざまなものは、それぞれX線の透過率が異なる。だから濃いのやうすいのや、様々なシルエットとして写る。

いわゆる胸部レントゲンとか腹部レントゲンと呼ばれる写真では、体の厚み分がまるごとすべて「影絵」になる。たとえば肋骨と肺と体脂肪のシルエットがすべて重なって写る。熟練した技術がないと病気の判定はできないし、臓器ひとつひとつを個別に検証するのも難しい。

そこで開発されたのがCTだ。CTもまたX線による「影絵装置」であることにかわりはない。

ただし、解像度(あるいは分解能という)が段違いである。シルエットを重ね合わせるのではなく、臓器ひとつひとつを個別に写し出す、いわゆる「輪切りの断面図」を得ることができる。

とても役に立つ検査だ。日本にCTがやたら多いのもうなずける。しかし……。

実は、「X線の透過率の差」だけで病気を見極めるのは、CTであっても、かなり難しい。

「濃い・薄い」の濃淡だけで臓器の中に何が起こっているかを見極めるのはたいへんだ。

もう少していねいに説明しよう。

濃淡の差が激しければみつけやすいが、差がとぼしければ見つけづらい。

当たり前だろうって?

この当たり前が、医療においてはけっこう深刻な問題を引き起こす。

「濃淡の差が激しい」とは、正常を逸している度合いが大きいということだ。一般的に、「病気がある程度進行している」ことを意味する。

でもぼくらは、病気が進行する前に見つけ出したい。要は早期発見をしたい。

となると、できれば「濃淡の差があまりないときにこそ、見つけ出したい」となる。原則ぼくらは、見つかりにくい変化をこそ、見つけたいのだ。



だったらどうするか?

X線の透過率、すなわち「成分の比」だけで画像を作るといろいろ難しいのだから。

もうひとつ、情報を足してやればよい。



その情報とは、「血流の多さ」、「血液の流れ具合」である。




病気というのは、がんにしろ、炎症にしろ、そこで普段と違うことが起こっている。普段と違うことが起こるというのは、いってみれば「そこだけ戦争が起こっている」ようなものだ。

戦争が起こっている場所には、敵(病気)がいて、味方(体が病気を治そうとする力)がいる。

こいつらは、戦うために、より多くの血流を必要とする。

病気がない場合にも、臓器ごとに決まった量の血液は流れ込んでいるのだが、病気のある場所においては、その血液の流れる速度、流れ込む量、あるいは血液が出ていく速さなどが、正常の場所と比べて変わってくる。

「血流のダイナミズム」。これを考慮することで、単なる「高度な影絵」だった画像診断に、一気に複合的な情報が付加される。




血液の流れる量をどうやって可視化するか? それが「造影剤」と呼ばれる薬だ。

造影剤は、血液の中に混じって、ふつうの血液と同じように全身をかけめぐる。そして、この造影剤は、X線をほとんど通さない。

血管の中に造影剤を注射した瞬間から画像をとりはじめると、造影剤はまず静脈にのって心臓に戻る。その後、肺の中に入って、肺から出て、また心臓に戻って、次に全身の動脈にばらまかれる。

注射して約30秒もすると、全身の動脈に造影剤がいきわたり始める。正常の臓器にも。病気の部分にも……。

このとき! 病気の部分は血流が多くなっていたり、あるいは周りよりも早く栄養をとりこもうとたくらんでいたりするので、周りの正常部分よりも少し早く、少し多くの造影剤を一緒にとりこむことになる。

そこでバシャッと写真をとる。病気の部分だけが、周りよりも強いシルエットになって写る。



これが造影CTだ。




ここまでをまとめると、

・X線を用いたレントゲンやCTという検査は、基本的に影絵だ。

・X線の透過率は、その臓器を構成している成分によって決まる。濃淡の差がでる。

・造影剤を使うと、成分による影絵のほかに、血流の情報を加味して、病気を見極められる

となる。

「成分」と、「血流」である。





じゃあ、超音波検査とか、MRIという検査は、いったい何を見ているのだろうか。

内視鏡は何を見ているのだろうか。

……この話、ひさびさに「続く」としましょう。次は病理の話(172)で。

2018年2月16日金曜日

パンが好きです

うどんを食うことを考えている。

土曜日の昼間だ。やることはまあある。しかしまずはうどんだ。

平日よりも2時間ほど遅く目が覚めたあと、のっそりソファに座って、朝飯もくわずにひざの上にPCをのせ、しばらくパタパタいろいろ書いたり読んだりしていた。テレビの音量は絞っていたがなにやら楽しそうにしていたのでそのままにしておいた。薄曇りの空が白く光っていて、厳冬にも関わらず部屋はわりと明るく灯りをつけなくてもよいくらいだった。

ふと見るとPCの充電が半分くらいになっている。そろそろPCを閉じてうどんを食いに行こう。平日にはなかなか行けないうどん屋に行こう。それが一番いい。出張のない土日は久々だ。うどん屋に行くなら、今日だ。

出張のない土日。札幌にいられる土日はいつ以来だろう。うれしい。札幌にはあちこち行きたいところがある。いまさら感がすごいが、この年になってあらためて、札幌をめぐってみたい気持ちがわいてきた。

ぼくは札幌産まれ札幌育ちだ。それでいて、札幌のラーメン屋とかスープカレー屋、蕎麦屋などをおちついて巡ったことがない。バーも焼き鳥屋も数えるほどしか知らない。地元に詳しくないのである。

大学時代、本州出身の友人たちは、はじめて生活する北海道という土地に対し、ちょっとこっちが引くくらいの愛情をもっていた。とにかくどん欲だった。夏休みや冬休み、長すぎる春休みなどを駆使して、彼らはドライブに明け暮れた。店という店を味わいつくす気まんまんであった。観光地という観光地を訪れまくり、ガリンコ号も雲海も宗谷岬も知床岬も二十間道路も、道の駅だって完全制覇である。

一方のぼくは生まれ育った町に対して、あらためて社会見学しようとは思わなかったし、北海道中膝栗毛を気取るつもりもなかった。思春期にありがちな、「さめていた方がかっこいいという理屈」も人並みに持っていた。

結果的に、大学を出るころには、道外出身者のほうが北海道の魅力に詳しくなり、道民が知らないようなお得な情報、おいしい店、きれいな景色、すてきな宿に精通していて、生粋の北海道民はむしろ生まれ育った土地に対し相対的に無知になる。北海道の大学生あるあるパターンと言える。

立派な中年となった今、かつてほどのトゲもなく、今さら自分の経験不足が惜しくなり、地元愛にも気づいて、遅まきながら思う。

自分の住んでいる町のおいしいものくらい食べ歩いておけばよかったなあ、と。

でも、そうか、札幌市内の飯屋くらいなら、この年であってもいろいろ回れるよなあ。

手始めに、今日はうどん屋に行こう。ぼくはうどんが大好きで、香川ではかれこれ50軒以上のうどん屋に行っているというのに、札幌では数えるほどしか行ったことがない。

これからは土日は休んでうどん屋に行くのだ。うどんの次はそば、その次はラーメン、スープカレー……。行きたいところはいっぱいある。まずはうどん屋だ、しかしどこのうどん屋にいこうか。候補探しのために、一度閉じたPCを再び開いた。





よし、ここだ! このうどん屋に行こう! 迷いに迷ったあげくに時計はもう1時を回っていたが、ようやく店が決まった。さっそく着替えて出かける準備をする。スマホと財布をズボンのポケットに片方ずつ入れて、……そういえばはじめて行く店だ、もう一度住所をきちんと調べておこうとスマホを取り出して検索した。そこにはこう書かれていた。

「麺が無くなり次第終了」

「土日祝日はお昼すぎには麺がなくなることがあります。ご了承ください。」






あーめんどくせぇ。食パンを焼いて食べた。土曜日はもう半分終わっていた。

2018年2月15日木曜日

病理の話(170) 國頭先生の圧倒

國頭英夫先生(日本赤十字社医療センター)が雑誌「Cancer board square」に新連載をはじめている。

「國頭ゼミの課外授業 わたしたちのキャリアプラン」というタイトルなのだがこれがめっぽうおもしろい。




看護学生に対するゼミをもっている國頭先生は、かつて、ベストセラー「死にゆく患者(ひと)と、どう話すか」にてゼミの学生たちとの講義録を惜しげもなく公開した。この本は、医療者もだけれど、非医療者も読んでおもしろいだろう。

だって、「死にゆかない人」なんていないからな。

死の話は避けられない。だからこの本は全員が対象となる。

かつ、この本は読んでいてくらい気分にはならない。億劫にも思わない。

死の周りにたちこめる、くらくかなしい気分は、表紙からも本文からもあまり感じられない。なぜだろう?

この本に登場する「ゼミの生徒たち」が若々しいから、だろうか……。




看護学生という若者たちが、自分からはまだだいぶ遠いところにいる「死にゆく人」に思いを馳せ、近い将来の自分たちが看護師としてどう接することができるだろう、と考えていく過程。クソ怖い教師が見守りツッコミ導いていく姿。なんだろうな、ふるえるほどにおもしろい。

ちょっと考えてみてほしい。

看護学生が、ジジイババアの死に際についてまともに理解できていると思うか? あなたは思うか? きれいごとを捨てた、今のあなたは、直感的にどう思うか?

ぼくだったらまず、「無理だろ」と思う。

8割くらいの人が同感していただけるのではないか。若き看護学生ごときに死は語れまい、と。

國頭先生は授業をし会話を続ける。たかが看護学生が相手だ。しかし、必ずしも國頭先生の一人勝ち展開とはならない。これが、なんというのかな、胸のすく思いがする。國頭先生の狙い通りなのだとしたら、脱帽だ。

日本最強の腫瘍内科医としてずっと臨床に立ち続け、「白い巨塔」の監修をしたり、里見清一名義で多くの著作をあらわしつづけている國頭先生の思索はふかすぎる。でも國頭ゼミの生徒たちは、國頭先生がどれだけ「エライ人」であるとかどれだけ「ユウメイな人」であるかを特に意識せずに、それでいて國頭ゼミにどっぷりつかりこんで、幼弱ではあるがそれゆえむしろ世の中の原基に触れるような、きわどい会話を繰り返していくのである。




そんな國頭ゼミの続編、というか番外編の連載がはじまった。

ぼくはCancer board squareに小さな連載をもっているので、毎号、この雑誌を送ってもらっている。届くとまず、自分の連載が載っていることを確認するのが常だ。しかし前号と今号は違った。まず國頭先生の連載を読むのである。

最新号では、國頭先生と二人の学生たちが「がん」ということば、さらには「大丈夫」ということばについて語る。がんということばはどれだけ患者にショックを与えるのか。そして、「大丈夫ですよ」ということばを医者が使いづらくなっている現状などについて、学生たちと鋭い対話を続けていく。興味深く目が離せない。

そして、おもしろいだけではなく、実はぼくは青くなった。

実は、某他紙の連載に、「大丈夫」という病院ことばについて書いたばかりなのである。しかもその記事はこれから出版される。自分が必死で書いた内容を弁護したいのはやまやまなのだが、國頭先生とゼミの生徒の掘り下げ方が見事で、嫉妬心をおさえられないし、なんならぼくの記事は二番煎じみたいに感じてしまう。まいったなあ。




病理医の商売相手は幅広く、内科、外科、耳鼻科婦人科泌尿器科眼科整形外科脳外科皮膚科……さまざまであるが、商売道具は顕微鏡とナイフと脳といたってシンプルであるし、扱う素材の60%くらいは「がん」。それだけに、「がん」ということばについてのあれこれは、かなり気になる。

そもそも病理医であるぼくは、ベッドサイドにはいないし患者とも話をしない。しかし、「がんの検体を採る前」や「採った後」に、患者と医療者がどういう会話をしているかにも、とても興味がある。

死にゆくひととどう話すかなんてのは、ぼくにとっては病理の話の中心にあるべきものなのだ。

2018年2月14日水曜日

ファー

出勤しようと車のシフトノブに手をやったら、手についていたわずかな水分が瞬間的に凍った気がした。もし濡れた手で触っていたらほんとうに凍り付いていたかもしれない。なんて寒い朝なんだ。ラジオでは気象情報をやっていた。札幌の気温は朝5時半の段階でマイナス11度。納得である。それでも札幌はまだ温かい方で、帯広や北見の方面は朝方などマイナス20度を平気で下回っているようだった。

こういう朝は、もっと寒いところのことを考える。

椎名誠がはるか昔に書いていた、シベリアのニタリノフの便座についての話は、何十年経っても思い出す。……といっても細部はまったく覚えていないのだが、タイトルとか挿絵とか、いくつかのエピソードをおりにふれて思い出す。

ぼくはときどき、マイナス40度とかマイナス50度くらいの極寒地域を訪れた人たちの本を読む。なぜ、といわれてもよくわからない。たまたま積み重なったものというのが人生にはいくつか存在する。



「極寒地域本」を読んで得た知識は、たいていムダ知識だ。だってぼくの日常からかけはなれすぎているのだから。

フードの周りに毛がいっぱいついたタイプのコートがあるだろう。あの毛は日本だとなんだかおしゃれの一部くらいの意味しかもたないが、厳寒地方においてはきちんと機能を果たしているらしい。「水分が付きづらい動物の毛をフードにつけることで、フードのフチが凍らないようにしている」とのことである。

極低温の世界に数分いると、自分の吐息がばんばん凍るから、顔の周りには常に白い霧が立ちこめている。フードをきっちりとかぶっていると、霧がフードの中にこもり、眉毛や鼻毛はすぐに凍り付いてしまうし、フード自体もがちがちに凍ってしまう。ところが、フードのフチに水分の付きづらい動物の毛をつけておくことで、フードのフチが凍らなくなるし、吐息由来の霧の逃げ道も確保されて眉毛が凍り付きづらくなるのだ、という。

本当かどうかは知らないが、本当だと納得できるくらいの説得力があるので、ぼくは本当だと信じている。




シベリアやカナダ北部の人々が用いている「生きる知恵」が本当かウソかなんて、極論すれば、ぼくにとってはどうでもいいことだ。たかだかマイナス10度くらいまでしか下がらない札幌である、毛つきのコートが役に立とうが立たなかろうが、その役割が水分の発散だろうがおしゃれだろうが、どちらでもかまわない。

けれど、なぜだろう、IT社会におけるサクセスの知恵とか、毎日元気に過ごせる健康法だとか、お金がたまる習慣とはこうだとか、そういったお得情報は圧倒的にウソばかりなのに、寒いところに生きる人々の生活の知恵にはウソはないんじゃないかなと、心のどこかで全体的に信じてしまっているぼくがいる。

だって、彼らのやってる儀式とか習慣がウソだったら凍死しちゃうからさ。



最初はなかなか暖まらなかった車内も、そんなことを考えているうちに、車のヒーターが稼働し始めて、だいぶマシになってくる。ヒーターが効くまでの間がつらいわけだが、そんなときには脳内をマイナス40度の紀行文で満たしておけば、車の温度計を見ても、「なんだあたいして寒くないじゃん」と勘違いすることができる。まあ言ってみればこれもぼくの生活の知恵なのかもしれない。うーんウソまみれだなあ。

2018年2月13日火曜日

病理の話(169) 病理診断的な目の使い方ですギョ

ある教科書の原稿を書いている。いくつかの役割を与えられているのだが、今書いているのは、「教えて! 病理医!」みたいな単元だ。

「内視鏡医が『これは9割方、がんじゃないな』と思った病気を念のために検査してみたら、がんだった。こんなの、ぱっと見はがんに見えないのに……。どうやって見分けたらいいでしょうか! 教えて、病理医!」

こんな質問がいっぱい載っている。

とても難しい原稿だ。必死で頭を絞り上げて書く。入力しては消し、入力しては消し。

なぜ、難しいと思う?

それは、内視鏡医が「難しい」と言っている問題を、病理医だったら「簡単に」答えられる、なんてのは、ありえないからである。

病理は直接細胞を見る部門なんだから、がんの見極めなんてカンタンでしょう? とんでもない、内視鏡医も病理医も、やり方は違えど、結局おなじ「がん」という病気をみて考える部門なのだから、一方が難しいと思ったらもう一方だって難しいに決まっている。

ずいぶんと「難しい」ということばを書いたが、今日はこの、「診断が難しいとはどういうことか」について説明をする。






医者が診断に悩むパターンというのがいくつかある。さまざまな病気ごとに悩みの種類も違うのだが、今日は話を簡単にするために、話題を「できもの」に限定しよう。

たとえば胃の中に何かできている。小さなでっぱり、へこみ、かたまり。

これは放っておいても問題ない病気(良性)だろうか? それとも、治療しないといずれ命にかかわる病気(悪性、つまりがん)だろうか?

できものの良悪を見極めるために、医者はさまざまな知識やデバイスを駆使するわけである。駆使して、何をするかというと……。

「正常の状態とのかけはなれ具合」を評価する。




水族館の水槽を思い浮かべて欲しい。

魚の大群が泳いでいるとしよう。

その中に、水族館の飼育員の人が、潜水服を着て潜ってくる。

これはもう誰が見ても「あっ、人だ」とわかる。あきらかに異質なものが混じったことにすぐ気づく。

魚ばかり泳いでいる中に人という「異なるもの」がまじっていれば、人はその違和感に気づきやすい。



正常の胃粘膜の中に、そこだけ明らかに質感の違う、たとえば盛り上がっているとか、へこんでいるとか、色が違うとか、何か血が出ているとか、そういう場所があれば、胃カメラで覗いている人はすぐに気づくことができる。

病変を見つけるというのはそういうことだ。「正常とかけはなれた部分を探す」。



逆に、イワシの大群の中にニシンが1匹だけ混じっていたとすると。

水族館見学をしている幼稚園児たちはおそらく気づかないだろう。まあぼくでも気づかない自信はある。

周りと比べて、あまり姿がかけ離れていないものが混じっていると、まず、気づくことができない。「かけはなれが少ない病変は見出しにくい」。



イワシの大群の中に小型のサメ(そんなのいるのかどうか知らんが)が混じっているとさらに難しい。

ニシンが混じっていてもイワシの生命は脅かされないだろう。

しかし、サメが混じっていると、そのサメは次第に周りのイワシを食い尽くしてしまうかもしれない。

「かけはなれの度合いだけではなく、かけはなれの種別にも注意を払う」ことが必要なのである。

イワシの中のニシン、は、「良性のできもの」。

イワシの中のサメ、は、「悪性のできもの」と考えればよい。





内視鏡でも病理のプレパラートでも、ぼくらが探しているのは「かけはなれ」である。かけはなれの度合いが大きければ、病変を発見することが容易となる。さらに、かけはなれの内容を見ることで、「こいつはこのまま放置しておくと周りを食い尽くすかもしれないぞ」と推測することができる。

かけはなれ、のことを、医学用語で「異型」とか「異型性」と呼ぶ(ちなみに「異形成」はまた別です)。

医療系の学生は組織学や病理学の授業中に「細胞異型」という言葉を学ぶ。しょせんは細胞の専門用語であって、あまり意味まで考えずに、「細胞に異型があればがん」みたいにさらっと聞き流す。

しかしこのことばの成り立ちをよく見てみると、「異なる、型(タイプ)」と書いているにすぎない。つまりはかけはなれのことなのだ。

正常の胃粘膜に比べると丈の高さが異なっている、とか。

正常の胃粘膜に比べると粘膜のざらつき具合が異なっている、とか。

色調が違うとか。ボリュームがすごいとか。

異型性を評価することで、内視鏡医は病気を見つけ、がんかがんでないかを判断する。

病理医もいっしょだ。正常の胃の細胞に比べると細胞の核が大きい、核の中のクロマチンが濃い、核の形がいびつだ、細胞質の量がへんだ、これらを細胞異型と呼んで評価しているにすぎない。

着目点こそ違えども、ぼくら医療者はみな、「かけはなれ」を診断しているのである。




「内視鏡医が『これは9割方、がんじゃないな』と思った病気を念のために検査してみたら、がんだった。こんなの、ぱっと見はがんに見えないのに……。どうやって見分けたらいいでしょうか! 教えて、病理医!」

この質問は、読み替えると、こうなる。

「イワシの中のニシンだと思ってたら、イワシの中のサメだったんですけど、ぱっと見はどっちも魚じゃないですか。どうしたら見分けられますか、教えて、病理医!」

うわぁ難しいなあ。



ニシンとサメの違い。

サメとイワシの違い。

これらを抽出する。

「イワシの中の飼育員だったらすぐわかりますね。イワシの中のニシンは見極めにくいですけれど、まあ問題ないと思いますよね。サメだと困りますねえ。普通はもっと、大きいですもんねえ。じゃあ、サメに気づくためにはどこに着目すればいいですかね……。魚の遺伝子を調べればすぐわかる? うん、そうですね。でも、毎日何百個という水槽をみているみなさんが、毎回水槽に潜って魚をとっつかまえて遺伝子検査までするのは、手間も労力もかかるし、お金だってかかりますから難しいですね。

だったらどうしましょうか。

背びれ? なるほど。

歯? そうかもしれません。

これらの違いを見つけるために、胃カメラの写真のどこに注目するのがよいでしょうか……」



この原稿は極めて難しい。さかなクン並みの知識が必要だし、さかなクンくらい人当たりがよくないと読んでもらえない。書いては消し、書いては消し、となっている。さかなクンは偉いなあ。今日は魚の話をするつもりではなかったのだが……。

2018年2月9日金曜日

Carcommunication

札幌で聴けるFMラジオのうち、大手の民放は2つあって、それぞれ「Air-G」、「North Wave」という。ほかにもいくつか草の根FM局がある。

朝はこれ、夜はこれと決めているわけではないのだが、適当にチャンネルをいじって、どちらかの局をよく聴いている。

一番ラジオを聴くのは通勤中、車の中だ。エンジンをかけるとまずラジオがかかる。少し聴いてみて、そのときの話題に興味がないとか、なんだか人の声が耳に届いてこないような日には、CDに変える。

このあたり、行動を決めているのは単に「気分」だ。ラジオと音源とどちらが好き、というこだわりはさほどない。



ただ、出張の前後では話がかわってくる。

ぼくは飛行機で出張するとき、空港への移動手段として車を選び、高速道路を走ることが圧倒的に多い。

自分の車で移動する、というと、交通費の計算ができないといって出張先の人にぼやかれたり、帰りの飛行機でビールが飲めないじゃないですかと不思議がられたり、移動中に事故ったら責任の所在が難しくなるといさめられたりと、わりと世の中の人々には納得していただけない。

別に運転がすごく好きなわけではない。免許だってオートマ限定だ。これをいうとよくバカにされるがオートマハラスメント(略して大原)であろう。ぼくは車で移動するのが習慣になってしまっており、そちらのほうが心地よいのだから、しかたがない。

端的にいうとぼくは出張のときにはカーステレオでCDを聴きたい。験担ぎみたいなものなので理屈ではない。

車に置いているCDは全部で12枚くらい。ときどき入れ替える。LOSTAGEのアルバムはどれか1枚必ず含まれている。あとはばらばらで、ピアノジャックだったりレッチリだったりピロウズだったり坂本慎太郎だったりスプラトゥーンのサントラだったりする。ジャンルは特に決まっていない。

これらを、高速道路の上で、聴く。もともとポリシーみたいに掲げていたわけではなかったけれど、今やほとんど習慣となってしまった。

いつどういう理由でこんな習慣ができたのかよく覚えていないのだが、おそらくは過去に、「ひどく緊張した出張の前にCDを聴いてテンションを無理矢理あげていたら仕事がうまくいった」みたいなエピソードがあったのだろうと思う。

エピソードをきちんと覚えていたら、そこそこまとまった「すべらない話」が作れたのかもしれないが、今こうして身についてしまっている日常のゆえんをすべて思い出せるほど、ぼくの脳は高性能ではなかった。





と、ここまでの記事はずいぶん前に書いてあったものだ。なんだか最後のまとまりがなくて、公開しないまま下書き状態で放っておいていた。この間、車内にはZAZEN BOYS「すとーりーず」や、矢野顕子「Soft Landing」などが導入され、ぼくは釧路や東京、仙台などに出張を重ね、相変わらずの暮らしを送っていた。




先日、実家でダンボールを開けたり閉めたりしていたら、懐かしいCDが出てきた。

Smooth ace, SPARTA LOCALS, スネオヘアー, 宇多田ヒカルの初盤……。

UA, Number GirlのライブCD, Rachel Yamagata……。

引っ張り上げられるように蘇った記憶は大学院時代のものだ。

ぼくは薄暗いラボの片隅で、Western blotのメンブレンを破り捨てながら、夜通し実験したり論文を読んだりして、何もかもがうまくいかない日々を送っていた。

ラボに置かれていた古いCDラジカセ(!)に、これらのCDを順番にセットして、盲端になっているトンネルの中でひたすら音楽を聴いていた。

大学院卒業間近の、3月のある日、ラボに置いてあったCDたちをすべて撤去した。すずらんテープで縛ってリュックに入れた。帰りの車の中で、その中の1枚を聴いた。

その1枚というのが、今車に置きっぱなしにしているレッチリの1枚であった。ついさっき、思い出した。残りのCDはこうして実家の納戸の中でダンボールにくるまれて、15年ほど眠っていたことになる。

出張前に聴いて仕事がうまくいったとか、テンションがあがってうれしくなったとか、そんな記憶はあとから、油絵を塗りつぶすように上描きされたものだった。習慣なんてそんなものだ。日常はこうしてできていく。

2018年2月8日木曜日

病理の話(168) 知ったかぶりクリニカル

ぼくはときどき、気づかぬうちに知ったかぶりをしている。そろそろ40になろうかという今ようやく実感して、改善しなければなあ、と思っている。

たとえばそれは、臨床医と話をしているときに起こる。

とある内視鏡医がこう言った。

「こないだある国で内視鏡してたら、バイオのパチモンがあってですね! 側面のロゴみたら『パイオ』って書いてあるんですよ、笑っちゃったなあ」

ぼくは破顔した。

「パイオですか! ハハハ! うける」

ぼくはこの「バイオ」を、疑うこともなくソニーのノートPC、VAIOのことだと思っていた。

1年ほど経ったある日、ぼくはとある研究会にいた。その会では有名な内視鏡医が、公開で内視鏡の技術を実演する、いわゆるライブデモという企画がなされていた。

ぼくは普段あまり見ない内視鏡医の手元をよく見てみようと思い立ち、演者の近くに座ってじっと彼の技術をみていた。

ポー、ポー、と音がする。何のビープ音かというと、内視鏡の先端から出たデバイスが病変を焼いたり切ったりするときに、高周波装置が発する効果音だった。

ポーポーうるさいそれを、ふと見た。

そこには、「VIO 300D」と書かれた箱形の機械があった。ああ、あれが高周波装置……。

あっ……。

「バイオ」とはVAIOではなくVIOだったのだ。はじめて気づいた。

某国に存在したパチモンというのは、「SOMYのPAIO」などではなくて、「PIO」なのだ。偽ブランドパソコンの話ではなく、偽ブランドの高周波装置だったのだ。





あのとき内視鏡医はこう言った。

「踏んでも熱があんまりかからないときがあるんですよ(笑)」

ぼくはそのことばを、知ったかぶりして流していたが、今にして思い出せば、とてもヘンである。

ノートパソコンを踏みつけて熱がどうとか言う話をする人がいるだろうか? いやまあそういう性癖の人もどこかにはいるかもしれないが、いくらなんでもそこで「おかしい、何の話だ?」となってしかるべきであった。

彼は、内視鏡に用いる、熱焼灼用の高周波装置の話をしていた。つまり、パチモンを使って内視鏡を操作しているとどこか日本のマシンと比べて性能が劣るんだ、それでもあの国では立派に胃カメラ・大腸カメラ業務をやってるんだ、という意味で笑っていたのだ。




バイオの話はまあ笑い話で済むかも知れない。

けれども、ぼくは続けて思った。ぼくは日頃から、内視鏡医たちが、あるいはもっと他の科の臨床医たちが、日常的に使いこなしている専門用語を、「いまさら聞けない」などの理由で知ったかぶりをしてやりすごしてはいないだろうか?



ロジスティック回帰分析。

FN(発熱性好中球減少症)。

ルー・ワイ・吻合。

アンチトロンビンIII値。

TAVI(経カテーテル大動脈弁留置術)。



ぼくが日頃から、便利に使っているつもり、のことばたちである。けれど、ぼくはこれらを、たとえば看護学生に、たとえば患者に、たとえば家族に、意味・機能・存在意義など正確に教えることができるだろうか?

できない。

ぼくは詳しく知らないものを、知ったフリをしている。

ライブデモの会場で、ぼくは少し赤面していたと思う。





病理医の仕事は、臨床医に向かって知ったかぶりをすることではない。そんなことに今さら気づき、ああ、40で不惑なんてうそっぱちだ、と、あらためて戸惑いながら、教科書をめくるしかない。

2018年2月7日水曜日

指定医ハンター

「ずるむけ」とか「もっこり」ということばを研究会で聞くことがある。フフッってなる。

この胃カメラの所見を説明するのにそのことば必要かよ、って思う。

もっと厳密なことばをきちんと使って欲しい。医者なんだからさ。




「ずるむけ」じゃなくて、

「粘膜下層を主座として発育した病変が、粘膜筋板を下から押し上げて粘膜下腫瘍様の隆起を形成すると共に、隆起表層の粘膜がびらんに陥って剥離し、粘膜下層の構造が表面に隆起しながら露出した状態」

ってちゃんと言えよ……って思う。

思うけれど……ううむ……「ずるむけ」って、便利なことばだなあ。ニュアンスはほぼ完璧なんだよなあ。



「もっこり」じゃなくて、

「粘膜内に何か、腫瘍細胞でも非腫瘍細胞でも炎症細胞でも構わないが何かが増生/増殖し、粘膜の丈が厚くなって隆起を来たした状態で、比較的立ち上がりが明瞭なことから限局性の変化であることが推測されるとともに、隆起部表層の粘膜にツヤ・光沢がみられることから緊満を感じる状態」

ってちゃんと言えよ……って思う。

思うけれど……ちきしょう、「もっこり」、便利だなあ!






ぼくは、辞書編纂者(飯間さんとか)のツイートを読むのが好きだ。「舟を編む」も、とてもおもしろく読んだ。

ぼくらが日常的に使っていることばは、さまざまなニュアンスを含む複雑な状態を、あっさりと表現してくれていたりする。

ひとつの言葉も、掘り下げていくと、「ああ、確かにそういう意味を含むんだよなあ。」なんて、驚きと発見に満ちあふれていたりする。

医療の画像をみて、「ずるむけ」とか「もっこり」ほどはっきりした日常ことばではないにしろ、ぼくらはしょっちゅう、「ちょっとざらついた感じ」とか、「下から持ち上げてくるような」とか、「なんとなく派手な印象で」とか、そういうニュアンス性の強い言葉を用いる。

「なぜこういう言葉で表現したくなったのだろう、この像はぼくにとってどう見えているのだろう」というところをしっかり掘り下げる作業というのは、けっこうおもしろい。



けどやっぱり、もっこりはまずいんじゃないかなあと思う。

2018年2月6日火曜日

病理の話(167) パイプのトラブル8000円

血管と血液の流れの話をしよう。

ぼくらの体の中では、生きている限り、ずーっと血が循環している。

動脈は、きれいな酸素や栄養をあちこちに送り込むために全身に張り巡らされた「パイプ」だ。

大動脈という人体最大のパイプは、心臓から最初に出てくる幹であり、血管の親玉である。リコーダーくらいの太さがある。このリコーダーから、脳、ウデ、足など各所に向かってもう少し細い動脈が枝分かれする。総頸動脈はエンピツくらいの太さだ。

胃や腸、肝臓や腎臓など、あらゆる臓器にも動脈が向かう。最後は毛細血管と呼ばれる髪の毛より細いパイプとなって、指先にまで分布する。

水道管をイメージするとよい。

浄水場できれいになった水が、最初はでかいパイプによって運ばれる。市街地に入ると編み目のようにわかれて、それぞれの家庭へと伸びる。家の中でさらに台所とか洗面所とかトイレといった細部に行き渡る。



さて、血管というパイプは、80年以上にわたって保守管理をしなければいけない。これはよく考えるとすごいことである。80年放っておいて朽ちない水道管などありえないだろう。

水道管が破裂したら地方紙の一面を飾るほどのニュースとなるが、そうならないように、水道局の人々は水道管の経年劣化を監視したり、古くなったパイプをとりかえたりしてくれる。

でも、人体の中には水道局はない。どうやって破損箇所を探し出し、どのようにメンテナンスしているのか?



血管のメンテナンスは、考えれば考えるほど複雑で、とてもよくできている。

「あれでしょ、血小板とかが出てきて、ふさいでくれるんでしょ。見たことあるよ」

その通りなのだけれども、ちょっと待って欲しい。よく考えて欲しい。

血管の世界では、水漏れ修理なんて穴をふさげばよいではないか、と簡単に片付けてしまってはいけない。



大原則として、血管というパイプは、水漏れもやばいが、詰まらせてしまってもいけない。もし詰まったらその先の細胞たちはみんな酸素や栄養がもらえなくなって、ばたばた倒れていくことになる。

この「穴をふさぐのはいいが、絶対に詰まらせるなよ」という制限が、修理をとても難しくする。



水漏れ箇所にパッチをあてたとしよう。よーしこれで穴はふさいだぞー。

でも動脈の中にはギュンギュンと血液が流れている。血管というパイプの壁にも、血流の力がドコドコかかっている(※ずり応力の話は省略します)。

パッチをあてて穴をふさいだはいいが、そのパッチだって劣化する。劣化してぼろぼろになって、あるとき、血の流れにおされてぼろっとはがれる。パイプの中をビュンと流れる。先に詰まる。

たいへんだ。水漏れ修理が原因で、パイプが詰まってしまう。



じゃあ、血管のパイプ修理はどうすればいいと思う?



パッチは用があるときだけカタチを保っていて、用が済んだらすぐ溶けて無くなるようにする。

そんな都合のいいパッチ、水道工事の世界には存在しないわけだが、血管工事の世界にはちゃんと存在するのだ。

すさまじい技術(?)である。細かい秘訣がいろいろある。話すと長くなるがひとつだけ。



パッチを必要な時に自由に作ったり溶かしたりするために、血管の中では、「たとえ水漏れが起こっていなかろうとも」、パッチを作るはたらきと、溶かすはたらき。これらを常に同時に稼働させている、という。

一見ムダにみえるが、この仕組みは優秀だ。

パッチが必要なときには「作る量を増やし、溶かす量を減らす」。

パッチが要らなくなりそうなら、「作る量を減らし、溶かす量を減らす」。

システムを常時、低速で稼働し続ける……言ってみれば「アイドリング」をすることで、いざというとき、システム立ち上げのタイムラグをなくすことができる。また、パッチの分量をリアルタイムで細かく調製することができる。

人体の中に水道局はいない、と書いたのだが、実は日頃から血液の中にはフィブリノゲンとかプロトロンビン、各種凝固因子などの無数の「水道局員」が溶け込んでいる。これらはぼくらの目に見えないレベルで、常時勤務している。常に血液の中で、パッチを作ったり溶かしたり、まるでアイドリング運転のように、低速運転しながらじっと待っている。

いざ! 血管がやぶれたら、あるいはやぶれそうになったら、アクセルをギュン! と踏む。すかさずパッチが大きくなってその場をふさぐ。アクセルが戻るとまた溶ける。




このシステムじゃないと、80年以上にわたる血管の保守管理はうまく回らないようなのだ。凝固・線溶(かためる、とかす)の仕組みはとても複雑で、医学部時代には授業で必ず寝てしまうくらい難しい(ラリホーマと呼ばれる)のだけれど、あらためて勉強してみるととても面白い。

なお今日の話はまだ「動脈」の話しかしてない。下水道、つまり「静脈」の話はしてないし、外因子と内因子の話もしてないし、一次止血と二次止血の話もしてないし、FDPとかD-dimerがなぜ検査として汎用されているのかも話もしてない。この世界は奥深いぞ。

2018年2月5日月曜日

オイル抜きで老いる

スーパーで売ってる、味がすでに付けられてるプルコギ的肉とか、生姜焼き的肉などを買ってきて、フライパンで焼いてのっけて食う。野菜が足りないなと思ったら玉ねぎを適当に切って一緒に焼く。味付けはスーパーにまかせているので自分ではもうほとんど加えない。

まず第一に油を使うのが面倒なので、フライパンで熱する料理しかやらない。ごま油を入れると香りがよくなって……みたいな話もわかってはいるし前はやっていたのだが、今ではほんとに最初に数滴たらすくらいだ。肉がもってる油だけで事足りてしまう。味の差はあるだろう、しかし、自分でさっと作ってぱっと食えることが、価値なのだ。丼モノは洗い物も少なくていい。



昔自分で買った本が読みたくなって、通りがかりのコーチャンフォー(本屋)でまとめて買ってしまった。実家に行けば同じものが揃っているのだが、再読したいほど好きな本なのだから、読むたびに作者に金を送るのは決して悪いことではないだろう。

この話を人にしたら、「そういう無駄遣いする人は嫌われますよ」とか「だらしないかんじがします」などといわれた。

先日は、ずっと買おうと思っていた曲の作者をツイッターで見かけて、「今だ!」と思ってiTunesでダウンロードをしたのだが、前に似たようなことを人に話したときも、「なんでそんなにホイホイ音楽買うかなあ、でもまあ、やっぱり医者ってのは金もってるからそういうことをするんだよねえ」といわれた。




ぼくは彼らにいつもいいたいことがある。

なぜ油料理をするのだ。なぜ油をひくのだ。油を買わなければいけないだろう。油を捨てるのだって面倒だ。油のついた食器は洗いにくい。油がなくたっていくらでもおいしい料理はあるのに。なぜ油をわざわざ買うのか?

彼らはなんと反論するだろうか。

ぼくは油を買わないが、本を買い音楽を買う。そこになんの違いもありはしないだろうと思う。




思うのだが、言うと、怒られる。

ちょっと怒られるのに疲れたので、ここはおとなしく、「油料理のコツ」が書かれた本を買って、よみはじめた。

「油料理も覚えようかなって思って、本買ってみたんですよ」

という話をしたら、「なんでそうやってすぐ本買うんですか? いくらでもネットに転がっているだろうに、もったいない」と軽蔑された。



アーウーアーである。

2018年2月2日金曜日

病理の話(166) 記憶は芋づる式

中学校のとき、「学年目標」みたいなのがあった。スローガンというやつだ。

ある年、ぼくのいた学年の人数が166人であるという理由で、

「想像ゆたかに166」

という標語がかかげられた。意味がわからなかったが、語呂がよかったせいか、当時は頭にスッと入った。

でも、しょせんは中学校時代の話である。もう25年経つ。もちろん最近はすっかり忘れていた。

ところが、このブログ記事を用意しようとして、「病理の話が166回目かぁ」、というあたりでふと思い出した。いうまでもなく「166つながり」である。

人間の記憶というのはふしぎだなあ。

そこを思い出させてくれるのか。

日頃なら思い出そうと思っても思い出せないことが、「連想」によってつるつると滑り出てくる。「166」という数字がぼくの中でエピソードと紐付けされていて、眠っていた記憶を引き出し得るなんてこと、ついさっきまでは思いもよらなかった。




記憶。

ぼくが昨日食べたごはんのメニュー。昨日みたテレビの内容。昨日すませた仕事。

さあ、思い出せ! と言われてもふだんのぼくはよく思い出せない。

けれど、さきほど仕事の書類を眺めていたときは、「昨日の仕事」について細部までほとんど完璧に思い出すことができた。

「仕事の書類を見ることで、仕事モードの記憶を引っ張り出す」。

実に合理的だなあと思う。

デート中に仕事のことばかり話す人は嫌われる、みたいなライフハックも聞いたことがあるけれど。




記憶は、常にほかの記憶と紐付けされているのだろう。何かが起こったとき、その場その場で関連する記憶を芋づる式に掘り出すシステム。

自転車で走っていて目の前に犬が飛び出してきた! アッと叫んで脳はいろいろな記憶のふたを開く。自転車のブレーキを握れば自転車が止まるのだ、という記憶。ハンドルがぶれないようにがんばらないと転んでしまうぞ、という記憶。急停車で体が前に持っていかれないようにふんばるべきだ、という記憶。衝突の衝撃に備えて目を細める反射も、広い意味で記憶に含めてしまおうか。

これらの、「自転車に乗っていて何かが起こったらどうするか」的な記憶は、必要なときに一斉に蘇ってくる。ほとんど無意識に。セットで。まとめて。

……もし、人の記憶というものがそれぞれ紐付けされておらず、すべて並列に扱われていたら? 根っこに芋がじゃんじゃんぶらさがる感じの整頓ではなく、番号付けされて本棚とかハードディスクにしまわれる感じの整頓をされていたら?

「犬が飛び出してきた」に辿り着く前に、あ行からずーっと記憶を検索しなければいけなかったろう。そんなことではブレーキは間に合わない。犬のしっぽを踏んでしまい犬に噛まれることになる。




膨大な量の記憶は、紐付けされている必要がある。縦横無尽に張り巡らされた紐。一箇所を用いようと手をのばせば、同時に紐で結ばれた関連した記憶が持ち上がってくるかんじ。

ニューロンのネットワークを思い浮かべた人もいるだろう。電気信号がネットワークになっているというのと、記憶という不可思議なものがネットワークになっているはずだというのと、実はだいぶサイズ感覚が違う話をしているのだけれど、感覚的に相似だなあと思う。フラクタルというやつなのかもしれない。




「夢は記憶の紐付けを整理する作業ではないか」という有名な仮説がある。

昼間に得た記憶を、睡眠中に組み換えて、紐付ける場所を最適化することで、将来自分に何かが起こったときにすばやく記憶を引き出せるように下準備をしている、というのだ。

イイ夢よりも悪夢をみる機会が多いのは、やっぱり人間、悪いことに備えておいたほうがいいから。

悪夢で経験しておけば、現実の世界で経験するころにはもう少し記憶がスムーズに引き出せるだろうということ。

イイ夢の一部が性的なのはなぜだろう。性的な記憶はほかの記憶にくらべて紐付け作業に気を遣うのだろうか。わかる気もする。もっとも、性的な夢というのはいいところで終わると相場が決まっている。「あとはわかるだろ」的な。「ここから先は記憶に頼るんじゃねぇよ」みたいなことか。脳はイケメンだ。

夢にめったに懐かしい人が出てきてくれないのは、「懐かしい人と会ったときのできごと」を将来また再現する可能性が低いから、だったりして。

懐かしい人と為したことは、その人のために為したことであり、もう同じことは繰り返さなくてよいのだ、と、脳が考えているのかもしれない。脳はハードボイルドでもある。




脳もときにはこっそり悪巧みをする。ぼくの知らないところでぼくを気遣っていてくれている。かもしれませんね。

2018年2月1日木曜日

CARDのWHITE LINEを聴くのもよいだろう

ちらりとのぞいたタイムラインは、「都内で雪が降っている話」でもちきりだった。上から順番に延々と再生しているiTunesからは「若者のすべて」が聞こえてくる。

今書いているこのブログ記事の掲載はきっと10日後くらいになる予定なので、これを読む人はもう、都内の雪の話なんかとっくに忘れているかもしれない。



札幌の気象予報士が、「湿った雪がたっぷり降った次の日は気温が下がりやすい」とテレビで言っていた。北海道の、とくに日本海側で冬にしばしば経験される法則のようだ。関東であてはまるかどうかは微妙である。

大陸からやってくる低気圧が雪を降らせながら通り過ぎると、その後ろから、まるでビッグバイパーのオプションのように強烈な寒気が入り込んでくるのだという。湿った雪の翌日は気温低下に注意しなければいけない。

つい数日前にも、札幌で少し気温があがって湿った雪が降った翌日に、厳しい冷え込みがきた。さて、関東の雪が積もったあとはどういう天気がくるのかなあ、と、ぼうっと天気予報をながめている。

この予報があたったか外れたかについても、10日後のぼくは知る事ができるはずだ。

けれど、今日のぼくの疑問が10日後のぼくの「だいじなものリスト」に入っているとは思えない。




ツイッターは言った、「いまを見つけよう」。

それに対して、NHK_PR1号はかつてこのようなことを言った、「ツイートはいつ読まれるかわからないんだから、いまのことをただつぶやいても伝わらないことがあるんですよ」。

ぼくは納得する。今ぼくがやっているブログにおいても、「いまのこの感情を書き殴ったはいいが、数日後に記事を公開するころになるとだいぶ感情の温度が落ち着いてしまった」なんてことを、頻繁に経験しているからだ。

ぼくは、過去の自分がちょっと熱かったのを見てフフッってなるのがなんだか楽しくて、いつしか「書きため」を多めに用意するようになり、書いた時の自分となるべく時間をおいて記事を読むことで過去の自分とのギャップを楽しむようになった。セルフ・ギャップ萌えと命名する。

前は5日分ほど書きためていたが、今では記事のストックが10日分くらいになった。




ある人が怒っていた。

自分の仕事を「取材」にきてくれたのはありがたいが、来るのが遅すぎる、もっと早く来なかったのはなぜか、と、報道してくれた相手に対しておかんむりであった。

ぼくはその人のコメントを読んだとき、

「猛スピードで取材をして、猛スピードで記事を仕上げたとしても、読者がその記事を猛スピードで読むとは限らないんだから、別にどうでもいいじゃんか」

と思った。





けれど、同時に別のことも考えた。

たとえばツイッターのタイムラインに、1年前の話題がのぼることはあまり多くない。SNSに限らず、世の中に流れていてぼくらの目を惹き付けるようなキラキラした情報の大半は、直近の話だ。ドラマで誰が何を言ったとか、芸能人が記者会見で何を言ったとか、アメリカで大統領が何を言ったとか、どのチームがどのチームに勝ったとか。

古い芸能ニュースや古いスポーツニュースをしみじみ見ようとする機会など、元々それほど多くはないのである。

「ある感情が冷めないうちにすぐ届ける」という、ホカ弁デリバリー的な情報配信こそが、今の時代……あるいはずっと昔から、人々が群がっている蜜なのであった。





都内の雪は、もう解けたろうか。札幌はまだ真冬のままであろうと思うがどうか。

ぼくは10日後に何を聴いているだろう。




冬の深夜、真っ暗闇に対向車のヘッドライトが必要以上にきらめいて見えることがある。低温のせいか、大気中の水分量が極めて少ないせいか。アンシャープマスクがかかったような視界に少しおびえながら、凍結した道をそろそろと走る車の中では、「宇宙コンビニ」を聴くとよい。「宇宙コンビニ」のCDを買ったのはもうずいぶん昔で、なぜこのバンドに気づいたのか自分ではよく覚えていないのだけれど、とてもいいバンドである。解散してだいぶ経つ。

すっかりiTunesでしか音楽を聴かない日々だけれど、カーステレオだけはいまだにCDが現役である。ネットで音源を直接購入してしまうと、車の中では聴けない。だから車の中で聴いている音楽は少し古いCDが多くなる。

iPodを使えば車の中でも最新の音源が聴けるではないか、といわれてぼくはむっとしたのだ。どこもかしこも最新にして何がおもしろいのか。いましか見ていない若者たちに、「過去を見つけよう」、そう答えてぼくは偉そうにふんぞりかえったのだ。