けっこうな運動をした翌日、あまり筋肉痛がこないときに、けっこう愕然とする。つまり筋肉痛は2日後にくるのだ。1日くらいではこないのである。つらい。
医学的に「筋肉痛が遅れてくる」ことはうまく実証できないようなのだが(されていてぼくが知らないだけかもしれないが)、とにかく体感的に、「年を取ると筋肉痛は遅れてくる」というのはもう事実でいいんじゃないかと思っている。
科学的にはうさんくさいんだけれども。
体感的に自分にとって真実であればよい。
加齢によって筋肉痛が遅れてこようが、実際にはそんな現象はないといわれようが、ぼくの体に対してぼくが考えることに真実も嘘もないのだ。ぼくがぼくに対して思ったことというのは、科学的にうそであろうと、勘違いであろうと、ぼくにとっての「Being」なのだ。それをそのまま受け入れるしかないのだ。
なあんてことを最近よく考える。
ヨーグルトを毎日食べてるからかぜをひかないんですよ、という人に、「科学的じゃないね」と伝えること、もはやむなしさしか感じない。どうでもいいじゃないか、そんな些細なこと。
テレビに出て、「ヨーグルトを食べましょう、そうすればかぜをひかないのです!」と宣言するのとは違うのだ。本人がそれで幸せならいいのだ。
ただ、毎日出勤してからデスクでヨーグルトを食べるといった人には、「歯磨きはきちんとしてね」と伝えたけれども。
科学と文学の関係は語り尽くされている。
ぼくはそれでも、他の人たちと同じように、いまさらではあるが、文学をもって科学をはかる作業をひとりこつこつやっていこうと思う。
先日、「マインドフルネス」なる概念をはじめて知った。まあうさんくさい、宗教だなあと最初は思った。どうもちょっと違うようで、けっこう科学が介入している分野のようだ。でもやってることはヨガっぽいのだ。ヨガとは違うとも書かれていたが。片岡鶴太郎を思い出したけれど片岡鶴太郎とは違うらしい。
マインドフルネスの特集について語った雑誌の巻末、編集後記がすばらしくて、ああまたあの敏腕編集者が書いたのだなあと思って最後に署名を見たら、別人だった。世の中にはすごい文章を書く人がやまほどいるのだ。ぼくはそれを受け入れて生きていかなければいけない。
あるものをあるがままに受け入れて、なんの感想も解釈も加えずに、ただそこにあるんだというココロモチで、しずかに呼吸をする。
「ただ筋肉痛だけがあるなあ」とスッと流せるようになるのはいつの日だろう。ぼくは明日、腰が痛くなる。