2018年2月2日金曜日

病理の話(166) 記憶は芋づる式

中学校のとき、「学年目標」みたいなのがあった。スローガンというやつだ。

ある年、ぼくのいた学年の人数が166人であるという理由で、

「想像ゆたかに166」

という標語がかかげられた。意味がわからなかったが、語呂がよかったせいか、当時は頭にスッと入った。

でも、しょせんは中学校時代の話である。もう25年経つ。もちろん最近はすっかり忘れていた。

ところが、このブログ記事を用意しようとして、「病理の話が166回目かぁ」、というあたりでふと思い出した。いうまでもなく「166つながり」である。

人間の記憶というのはふしぎだなあ。

そこを思い出させてくれるのか。

日頃なら思い出そうと思っても思い出せないことが、「連想」によってつるつると滑り出てくる。「166」という数字がぼくの中でエピソードと紐付けされていて、眠っていた記憶を引き出し得るなんてこと、ついさっきまでは思いもよらなかった。




記憶。

ぼくが昨日食べたごはんのメニュー。昨日みたテレビの内容。昨日すませた仕事。

さあ、思い出せ! と言われてもふだんのぼくはよく思い出せない。

けれど、さきほど仕事の書類を眺めていたときは、「昨日の仕事」について細部までほとんど完璧に思い出すことができた。

「仕事の書類を見ることで、仕事モードの記憶を引っ張り出す」。

実に合理的だなあと思う。

デート中に仕事のことばかり話す人は嫌われる、みたいなライフハックも聞いたことがあるけれど。




記憶は、常にほかの記憶と紐付けされているのだろう。何かが起こったとき、その場その場で関連する記憶を芋づる式に掘り出すシステム。

自転車で走っていて目の前に犬が飛び出してきた! アッと叫んで脳はいろいろな記憶のふたを開く。自転車のブレーキを握れば自転車が止まるのだ、という記憶。ハンドルがぶれないようにがんばらないと転んでしまうぞ、という記憶。急停車で体が前に持っていかれないようにふんばるべきだ、という記憶。衝突の衝撃に備えて目を細める反射も、広い意味で記憶に含めてしまおうか。

これらの、「自転車に乗っていて何かが起こったらどうするか」的な記憶は、必要なときに一斉に蘇ってくる。ほとんど無意識に。セットで。まとめて。

……もし、人の記憶というものがそれぞれ紐付けされておらず、すべて並列に扱われていたら? 根っこに芋がじゃんじゃんぶらさがる感じの整頓ではなく、番号付けされて本棚とかハードディスクにしまわれる感じの整頓をされていたら?

「犬が飛び出してきた」に辿り着く前に、あ行からずーっと記憶を検索しなければいけなかったろう。そんなことではブレーキは間に合わない。犬のしっぽを踏んでしまい犬に噛まれることになる。




膨大な量の記憶は、紐付けされている必要がある。縦横無尽に張り巡らされた紐。一箇所を用いようと手をのばせば、同時に紐で結ばれた関連した記憶が持ち上がってくるかんじ。

ニューロンのネットワークを思い浮かべた人もいるだろう。電気信号がネットワークになっているというのと、記憶という不可思議なものがネットワークになっているはずだというのと、実はだいぶサイズ感覚が違う話をしているのだけれど、感覚的に相似だなあと思う。フラクタルというやつなのかもしれない。




「夢は記憶の紐付けを整理する作業ではないか」という有名な仮説がある。

昼間に得た記憶を、睡眠中に組み換えて、紐付ける場所を最適化することで、将来自分に何かが起こったときにすばやく記憶を引き出せるように下準備をしている、というのだ。

イイ夢よりも悪夢をみる機会が多いのは、やっぱり人間、悪いことに備えておいたほうがいいから。

悪夢で経験しておけば、現実の世界で経験するころにはもう少し記憶がスムーズに引き出せるだろうということ。

イイ夢の一部が性的なのはなぜだろう。性的な記憶はほかの記憶にくらべて紐付け作業に気を遣うのだろうか。わかる気もする。もっとも、性的な夢というのはいいところで終わると相場が決まっている。「あとはわかるだろ」的な。「ここから先は記憶に頼るんじゃねぇよ」みたいなことか。脳はイケメンだ。

夢にめったに懐かしい人が出てきてくれないのは、「懐かしい人と会ったときのできごと」を将来また再現する可能性が低いから、だったりして。

懐かしい人と為したことは、その人のために為したことであり、もう同じことは繰り返さなくてよいのだ、と、脳が考えているのかもしれない。脳はハードボイルドでもある。




脳もときにはこっそり悪巧みをする。ぼくの知らないところでぼくを気遣っていてくれている。かもしれませんね。