連日タイムラインがスポーツの話題にみちあふれていてとてもうれしかった。
オリンピックや各種ワールドカップが開催されると、タイムラインはとても華やかになる。
報道はときに、競技選手の内情に勝手に迫ったり、作り込んだインタビューを何度も流したりするので、オリンピックの直前になると、
「ああまた芸能ニュースみたいなノリでスポーツを扱うんだな……」
という気持ちで少しつかれてしまうのだけれど、いざ、スポーツがはじまると、将来が読めず過去とも切り離された「今」を生きる選手達の本気の熱量が、確実に瞬間・瞬間に燃え上がっているのがわかって、雑音が少しずつ聞こえなくなっていって、とてもいい気分になる。
スポーツをやっている人たちが、競技場の外でしゃべることはあくまで一般的な人間の脳からアウトプットされたものだ。ときおり「ん?」ということもまじる。元スポーツ選手、スポーツ解説者、スポーツをみるだけの人、みな同じだ。人のいうことは「うん」と「ん?」のくり返しである。「プロ発言者」というのでもないかぎり、しゃべること、理念、誰もが穴だらけである。
けっきょくぼくらは全員穴だらけなのだ。気にくわないこともある。おかしいなと思うこともある。もう少しなんとかならんのかというときもある。けれどそういう脳なのだ。画一的な思考では適者生存できなかったぼくら生命は、とにかく、多様に生まれて多様に語るようにできている。
だからスポーツの祭典が開催されるといちいち怒っている人のことも、まあ、わかる。次のオリンピックに向けてはやくも不要論をぶちあげる人だってこれからまた元気になるだろう。ぼくらは人間だから、理論は必ずどこかでぶつかるし、誰もが必ず誰かに「ん?」と思う。
それでもスポーツをみている瞬間だけは、そういう過去のしがらみとか、未来の予測とかを忘れて没頭できる。ぼくはスポーツが好きだし、オリンピックが終わってしまうのがやっぱりすこしさみしいなあと思っている。