2018年2月15日木曜日

病理の話(170) 國頭先生の圧倒

國頭英夫先生(日本赤十字社医療センター)が雑誌「Cancer board square」に新連載をはじめている。

「國頭ゼミの課外授業 わたしたちのキャリアプラン」というタイトルなのだがこれがめっぽうおもしろい。




看護学生に対するゼミをもっている國頭先生は、かつて、ベストセラー「死にゆく患者(ひと)と、どう話すか」にてゼミの学生たちとの講義録を惜しげもなく公開した。この本は、医療者もだけれど、非医療者も読んでおもしろいだろう。

だって、「死にゆかない人」なんていないからな。

死の話は避けられない。だからこの本は全員が対象となる。

かつ、この本は読んでいてくらい気分にはならない。億劫にも思わない。

死の周りにたちこめる、くらくかなしい気分は、表紙からも本文からもあまり感じられない。なぜだろう?

この本に登場する「ゼミの生徒たち」が若々しいから、だろうか……。




看護学生という若者たちが、自分からはまだだいぶ遠いところにいる「死にゆく人」に思いを馳せ、近い将来の自分たちが看護師としてどう接することができるだろう、と考えていく過程。クソ怖い教師が見守りツッコミ導いていく姿。なんだろうな、ふるえるほどにおもしろい。

ちょっと考えてみてほしい。

看護学生が、ジジイババアの死に際についてまともに理解できていると思うか? あなたは思うか? きれいごとを捨てた、今のあなたは、直感的にどう思うか?

ぼくだったらまず、「無理だろ」と思う。

8割くらいの人が同感していただけるのではないか。若き看護学生ごときに死は語れまい、と。

國頭先生は授業をし会話を続ける。たかが看護学生が相手だ。しかし、必ずしも國頭先生の一人勝ち展開とはならない。これが、なんというのかな、胸のすく思いがする。國頭先生の狙い通りなのだとしたら、脱帽だ。

日本最強の腫瘍内科医としてずっと臨床に立ち続け、「白い巨塔」の監修をしたり、里見清一名義で多くの著作をあらわしつづけている國頭先生の思索はふかすぎる。でも國頭ゼミの生徒たちは、國頭先生がどれだけ「エライ人」であるとかどれだけ「ユウメイな人」であるかを特に意識せずに、それでいて國頭ゼミにどっぷりつかりこんで、幼弱ではあるがそれゆえむしろ世の中の原基に触れるような、きわどい会話を繰り返していくのである。




そんな國頭ゼミの続編、というか番外編の連載がはじまった。

ぼくはCancer board squareに小さな連載をもっているので、毎号、この雑誌を送ってもらっている。届くとまず、自分の連載が載っていることを確認するのが常だ。しかし前号と今号は違った。まず國頭先生の連載を読むのである。

最新号では、國頭先生と二人の学生たちが「がん」ということば、さらには「大丈夫」ということばについて語る。がんということばはどれだけ患者にショックを与えるのか。そして、「大丈夫ですよ」ということばを医者が使いづらくなっている現状などについて、学生たちと鋭い対話を続けていく。興味深く目が離せない。

そして、おもしろいだけではなく、実はぼくは青くなった。

実は、某他紙の連載に、「大丈夫」という病院ことばについて書いたばかりなのである。しかもその記事はこれから出版される。自分が必死で書いた内容を弁護したいのはやまやまなのだが、國頭先生とゼミの生徒の掘り下げ方が見事で、嫉妬心をおさえられないし、なんならぼくの記事は二番煎じみたいに感じてしまう。まいったなあ。




病理医の商売相手は幅広く、内科、外科、耳鼻科婦人科泌尿器科眼科整形外科脳外科皮膚科……さまざまであるが、商売道具は顕微鏡とナイフと脳といたってシンプルであるし、扱う素材の60%くらいは「がん」。それだけに、「がん」ということばについてのあれこれは、かなり気になる。

そもそも病理医であるぼくは、ベッドサイドにはいないし患者とも話をしない。しかし、「がんの検体を採る前」や「採った後」に、患者と医療者がどういう会話をしているかにも、とても興味がある。

死にゆくひととどう話すかなんてのは、ぼくにとっては病理の話の中心にあるべきものなのだ。