2018年4月25日水曜日

病理の話(194)

医療の目的はなにか。

「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。

これに反論する人もいるかもしれないけれどいったんおいとく。

で、「患者の幸福」の定義は、それほど簡単ではない。



たとえば、糖尿病という病気は、

 ・食後などにおいて血糖値が高め

 ・だけど特に症状とかはない

という時期が、比較的長く続く。

この時点で、血液検査などによって”ひっかかる”ことが多い。

ひっかかるというのもまた一筋縄ではいかない言葉だ。なんとなく投げやりなニュアンスを含む。

ひっかかった人はどう思うかというと……。

「えっ、俺、病気なの?」

「なんともないのに?」



そこに医者からコメントが入る。

「このままの状態を続けると、いずれやばいですから。食生活を見直しましょうね。運動をしましょうね。」




この一連の流れは、患者にとって「幸福」だろうか?

とつぜん病気だといわれて生活を制限されるのだから、ま、ちっとも幸福ではないように思える。



医療を巡る諸問題のキモはここにあると思う。

患者は「今幸福なんだから、ほっといてくれ」と思う生き物だ。

けれども、医療者は、

「将来その幸福がごっそり減ることが ”予想される” から、今から対策をして、将来できるだけ不幸にならないようにしようぜ」

と提案したい生き物である。




冒頭、ぼくはこのように書いた。

 医療の目的はなにか。

 「患者の幸福」というのがまあ一番なんじゃないかな。



でも医療者からすると、こう書きたくなるのだ。

 医療の目的はなにか。

 「患者の現在および将来における幸福」。ただし幸福は相対的である。




医療者というのは多くの患者と触れるうちに、

「この患者にこれをしないとあとでつらくなる」

「この患者にあれをやめさせないとあとがきついぞ」

「その患者にこう介入しなければ将来不幸になる」

「この患者はどのみち不幸になっていくのだが、それでもこれをすることで、いちばん軽い不幸でおさまる」

というように、「将来の予測」を自然と用いるようになる。

ところが患者にはこの「予測」がわからない。将来を実感できない。

「タバコやめないと苦しんで死にますよ、だって? ハッ、人間だれだって死ぬときは苦しまァ!」

と豪語した元気な中年男性が、のちに重度の肺気腫で「おぼれながら毎日を過ごす」ようになる、ということを、医療者はなんとなく予測して、ぼそりとつぶやく、「だから言ったのに」。

一方、まだ肺気腫がそれほどひどくなっていないころ、タバコを吸い続けながら「医者のいうことなんざ笑い飛ばしてやったよ!」と笑い飛ばしていた人は、その瞬間、あるいは幸せだったかもしれない。

「そんな幸せはにせものだ」と、あなたは言えるだろうか?

患者の幸福とはなんだ?





将来のことは誰にもわからない。医者だってわかっているのは確率だけだ。

まだサイコロをふってもいない状態から負けると決めつけて、負けに備えて準備をしなさい、そのために今の幸せを少し削りなさいとはどういうことだ、といいたくなる患者の気持ちもわかる。





ぼくは、医療の目的を真に達成するためには、患者の現在と将来を、患者と医療者が「二人三脚で予測」して、どの段階での幸せを優先するかしっかり話し合うことが必要だと思う。

 ・現在だけではだめだ。医療者は将来がみえる。現在ばかり気にしている患者をみると、「将来をみろよ」といいたくなる。

 ・将来だけではだめだ。患者は今に生きている。将来ばかり気にしている医療者をみると、「今の俺をみてくれよ」といいたくなる。






問おう。

安楽死ということばは、「死という将来、あるいは死後という将来」のために行うことか?

それとも、「現在の生」のために行うことか?

なぜ医療者の多くは安楽死に反対するのか?

なぜ患者の多くは安楽死を導入したほうがいいと思っているのか?