それぞれ学習の進度が異なる研修医のみなさんを眺めていると、病理診断というものが、当初医学生や研修医たちにどのように思われており、それがどうやってプロの仕事に近づいていくか、という過程を眺めているような気持ちになってなかなかおもしろいのである。
まず、病理にはじめてやってきて、学生実習以来はじめて顕微鏡をのぞく人は、顕微鏡のクオリティに驚く。
実習で使った顕微鏡とは見え方がまるで違うのだ。よく見える。はっきり見える。びしびしピントが合う。なんだかボタンがいっぱいついている。
横からぼくがやってきて、少し光量を落とすことを教える。解像度のよい顕微鏡は、あまり明るくしなくても細胞がきちんと見える。光量が強いとすぐ目が疲れてしまうから、疲れないように。
自分でハンドルを動かしてみて、あまり酔わないことに気づく。
なぜ酔わないのだろう。レンズがいいからだろうか。
実は、「光軸の設定」が完璧だと、酔わない。というか、実習で使っている安い顕微鏡は光軸がずれており、いわゆる「乱視」みたいな状態になっていることが多いので、しばらく見ていると酔ってしまうことが多いのだ。
あれを顕微鏡だと思わないでほしい。
病理の最初は、まず、「顕微鏡ってすげぇんだな」を知るところからはじまる。
そして、ひととおり顕微鏡で遊んだ後、ぼくのしゃべる内容にほとんど顕微鏡の話が出てこないことに気づく。これが第二段階だ。
病理診断は顕微鏡をみる前に9割終わっているのだ、ということを理解してもらう。
病理診断学は、顕微鏡診断学とイコールではない。
病理診断学の一部に顕微鏡診断学があるに過ぎない。
そのことに、きちんと「ショック」を受けてくれる研修医は伸びる。
「顕微鏡をみる前に、あるいはみている最中も、ほかにやることがいっぱいあるんですね。」
これをわかってくれると、病理部の存在が単なる「顕微鏡屋」には見えなくなってくる。
その上で、病理診断報告書の書き方を学ぶ。
「箇条書き」と揶揄されるレポートの中には、統計学の番人たる病理医の矜持が籠められていることを知る。
「病理医にしかわからない自己満足の長文解説」が、臨床医や患者と離れた場所で病理医が担保しなければいけない診断均てん化に果たす役割を学ぶ。
そして、「臨床が求める美しいレポート」のありようを探る。
読みやすく、かつ、文章を追うだけでまるで顕微鏡像が思い浮かぶような「名文」を考える。
名文の先にある「神報告書」だと、なんと文章を読むだけで臨床医がみていたCT, MRIなどの画像情報や、患者さんの顔色までが見えてくるのだ、ということを知って、笑う。
いいレポートを書きたい、と思ったら、顕微鏡の見方が洗練されてくる。
教科書に載っている典型像を、必死で顕微鏡で探すだけの、「絵合わせ診断」は卒業だ。
何がみえたらまずいのか。何を探してみつけに行くのか。そういったことを考えて顕微鏡をみるようになる。
「いいなあ病理医は、細胞だけみてりゃいいんだから」とイヤミをいってくる臨床医の気持ちを忘れないうちに。
臨床医がなぜ、病理医に対してそんな卑屈な感情を抱くに至ったのか、思いを巡らせ。
臨床医がいつか、「あの病理医に細胞をまかせておけば安心だ」という日がくるように。
どうしたらよいコミュニケーションがとれるかを夢想する。
臨床医と良好な関係を築けるような病理医を目指しているある日、病理学の教科書が気になる。
そこには、しばしば、臨床医の方を全く向かずに、顕微鏡だけで組み立てた「真実」が載っている。
そういうものが、むしろ、逆に、気になってしょうがなくなる。
医師免許をとりながら、あえて顕微鏡の世界だけに暮らした人々というのがいる。
臨床医とがっちり会話しながら、患者に思いを馳せる病理学はとても楽しい。そんなこと、昔の病理医だってわかっていたはずなのに。
なぜ昔の病理医は、「ただひたすらに顕微鏡をみること」を、そんなにおもしろいと思えたのか?
……逆に、気になってくる。
だから読む。しばし読む。じっくりと読む。
行間から、「どうだ、病理学だぞ」というプライドのようなものが立ち上がってくる。
その奥に、本当に繊細なプロの仕事がみえてくる。
このブログを毎日欠かさず読んでいる人というのは、全国に1000人くらいしかいらっしゃらない。たったの1000人だ。
その中に、病理の研修をしている研修医というのが何人含まれているだろうか。
もしかしたら1人もいないかもしれない。それでもいちおう、書いておく。
あなたは今日の記事の、どこに一番「共感」したくなったろうか。
必ずしも順番が一緒ではないかもしれない。
あるいはひとつも共感できなかったかもしれない。
でも、たいていの病理研修医たちは、これらをある程度順番通りに通過していく。
病理医の人生みたいなものが、おぼろげに見えてくる気がして、とてもおもしろいなあと思う。