2016年11月18日金曜日

神田 富士そば 月見 340円

ぼくは、とりたててそばの味にうるさい人間ではない。

温かく、なんらかの出汁を感じれば、それはうまいものだと感じる。

中年になってからは、一味を振るようになった。そばなら一味、牛丼には七見、 塩ラーメンには胡椒。備え付けの香辛料に手が伸びるようになるのがおじさんの証だ、と胸を張っている。



先日、出張から帰ってくる日、早朝に入った、神田駅前の富士そば。

ただそばを食った、ま、うまかった、それだけの店、と思った。

ツイートをした。ごちそうさまです、と書いた。

すると、断続的に二通のリプライが届いた。異口同音に、こう書かれていた。

「まだ早朝オープンの喫茶店がない頃からそこにあった富士そば。早朝に温かいものを食わせてくれた富士そば。いいお店でしょう」

そうだな。

その通りだ。

食い物を評価するのは、「食事のために食事をする人」ばかりではない。

忙しい生活の隙間にはめ込むように、密度から逃げ出すように、「何かを食いに入る」。そんな時間が、生活を潤すと同時に、「味」にも意味を与える場合がある。



そういえば、小さい頃、雪の日に空き地に作ったかまくらは、0.5 畳のワンルームで、ガスも水道もなく、トイレもなく、しかし、ただひたすらに暖かかった。いくつものワンルームに暮らしたけれど、あれがぼくにとっての富士そばだったのかもしれないなあと、そんなことを思う。

退店時のあいさつとしては「ごっそさーん」が似合う気がした。