2016年12月5日月曜日

二刀流のゆくえ

学生時代から、自分は図抜けて頭がいいと思っていたし、頭脳を最大限に活用できる場で全力で燃えさかってやろうと、全方位に向けて、ビームのようなものを激しく打っていた。

ぼくは、「患者を救いたいから医者になろう」と思った記憶はない。このことについては、何度も何度も考えて、自分の心づもりを確認してきたから、たぶん本当のことだ。

大学に入る前、入った後、大学院に進んでからも、それから病理医になってからも、ずっと記憶を更新してきたけれど、およそ1度も「患者を救う」ということがモチベーションの主軸であったことはない。

無論、モチベーションの「補佐」をしていた、とは思う。いくらなんでも自分が、「患者を救う」という美しすぎる言葉に、何も感じなかったとは思えない。

でも、あくまで、補佐だ。自分のやることが結果的に患者や多くの人間の役に立つならば、それはそれでけっこうなことですね、存分に使ってください、ただしぼくは自分と科学のために自分の脳を使いますから。患者のためではないです。科学のためです。

その程度だったと思う。




そしてぼくは、研究者になろうと思った。学生時代に試験勉強をしたり、USMLE(米国医師国家試験)の勉強をしたり、有志でケーススタディの勉強会をやったり、英語の教科書の抄読会をやったりしながら、もちろん他の医学部生と同じように、剣道をやったり、バイトをしたり、まあほとんどの学生達が大変だ大変だと愚痴をこぼしながらも一通り学生なりの青春を謳歌していくのと同じように、「マルチタスク」という名の……実際には単なる「焦点のボケた」生活を送りながら、研究者こそが自分の生きる道なのだと、酩酊していた。

もし、真剣に自分の頭脳を使って仕事をしようと考えていたならば、もっとほかにやりかたはあったかもしれない。

いろんなタスクに浮気をするのではなく、ストイックに学問を磨いた方がよかったのかもしれない。

そもそも、そんな頭脳は持っていなかったかもしれない。

ぼくはずっと、そんな、心の声に耳をふさいでいた。ぼくはいろいろなタスクの中に埋没することで、心の間歇泉からときどき吹き出してくる、

「お前は、本当に、世の中に数人しかいないレベルの天才なのか? お前はそんなに、八方美人に、いろんな方に目を向けていていいのか? お前は、そこまで、すごいやつなのか?」

という、か細い泣き声のような自問に対して、

「いいんだ、いろいろやっているからすごいんだ、ぼくはすごいんだ」

と、大声でかき消すようなことをしていた。


研究者を目指すべく大学院に入ったぼくは、そこで、薄々感づいていた自分の限界と、毎日向き合うことになった。


研究という名の実験助手をし、頭脳労働という名の論文抄読をこなしながら、ルーチンとして降りかかってくる「病理診断というバイト」だけは、しかし、ま、向こうに患者がいるのだから、と、真摯に向き合うような顔をしつつ、実際には、「病理診断はあくまでバイト。研究こそが自分の活躍できる場所」と、お経のように何度も、何度も、何度でも唱えながら、来る日も来る日も、病理診断と実験の二足のわらじを「マルチタスクだから」と称して、相変わらずのピンぼけた生活の中で、そう、うすうすはわかっていた。


ぼくはそこまで優秀ではない、ということ。



26歳のある日、ぼくはニューヨークでメシを食っていた。向かいには、研究で留学を決め、数日後からニューヨークの研究所で働き始める予定の、元同僚である女性が座っていた。市原君はこれからどうするの、と問われて、ぼくは確かに、こう答えた。

「研究と病理診断の、二刀流でしばらくは行ってみたいと思うんですよ」

これは、ぼくなりの敗北宣言でもあり、敗北を認めない逃げの台詞でもあった。

ぼくは、この頃、自分の研究能力の限界を悟っていた。どうがんばっても、自分は天才ではなかった。何よりも、基礎研究の世界に真摯に打ち込み続けるだけの、精神的な集中力が絶望的に足りなかった。ぼくは、マルチタスクだと自分を甘やかしながら、ただ圧倒的に何かに対して没頭する力が、欠如していたのだ。

けれど、「二刀流ならば。それは、すごいことだ。得がたいことだ」と、自分の敗北を認めず、価値観をずらすことで、自尊心を保とうとしていたのではないかと思う。

向かいの女性は、すかさずぼくを袈裟斬りにした。

「二刀流なんて、ね。投げても打っても一流の選手なんて、世の中にはいないの。どちらかにしたほうがいいと思う」



***



北海道日本ハムファイターズには大谷翔平という天才がいる。まだ22歳の若者を見て、ぼくは心底恐れ入ってしまった。未だだれも成し遂げたことのない、二刀流がここにいるのだ。

そして、彼の姿を報道で見る度に、しょっちゅう、思うことがある。

ニューヨークにいたあの12年前、もし大谷翔平が二刀流で活躍していたら、ぼくは自分の研究者人生をあきらめられたのだろうか。

マディソン・スクエア・ガーデン近くのパブであの日……今まさにイバラの(しかし、色とりどりのイバラの)留学人生をはじめようとする女性研究者を前に、ぼくは、ただ日本に帰って実験の手伝いをするだけのぼくは、透明度の高すぎるスカスカの言葉で必死に自分をとり繕って、彼女の確固たる実績とウソのない気づかいを前にして、それまで築き上げてきた脆弱な心の骨組みを全て脱灰され、がらんどうになった。

ぼくは、研究者にはなれないんだなと、確信した、あの日。

もし、大谷翔平が、今のように、二刀流で活躍していたら、ぼくは必ず彼女に言ったことだろう、「病理の世界でぼくは大谷翔平を目指そうと思うんですよ」。

そこには中身も計算も何もない。ただ、自分のマルチタスク人生を肯定できる格好のサンプルを見つけて、鼻っ柱が折れるまでの時間を先延ばしにするだけの、青春の終わりを先に延ばすような、むなしい抵抗になったことだろう。

それでもぼくは、思う。

もっと抵抗していたら、今、ぼくはどこにいて、どんなPCの前に座って、何を書く人間になっていたのだろう。



日本に帰ってきてからのぼくは、「病理医なら楽勝なはずだ、医師ならできるはずだ」という無知が生んだゆがんだプライドの数々を、優しい先達によってひとつひとつ、虫を潰すように粉微塵にされていった。それは、研究者人生をあきらめた日以上に、残酷で、おだやかな光に満ちあふれた日々だった。

仕事、家庭、人格もまた崩れていき、ぼくは、じっくりと再構築を続けていった。「マルチタスク脳」を、どう使えば、人と交じって働くことができるのだろうかと。ぼくは誰のために、何のために、自分をどこに置いておけばいいのだろうかと。




今ここにこうして、顔を真っ赤にしながら、全てを思い出しているぼくは、不器用だけれど前よりは少しだけ堅実に、誠実になったであろう、ぼくである。

あの日、大谷翔平がいなかったから、敗北と向き合わざるを得なかった、ぼくである。

仕事中に、ブログを更新することすらできる、マルチタスクな、ぼくである。