東洋医学は経験により裏打ちされており、メカニズムはほとんどわかっていなかったわけだが、直近の20年、漢方とかツボとかの理論を西洋医学と照らし合わせる試みが進んでいる。一方で、西洋医学が常にメカニズムを大切にしてきたと言い切るのは簡単だが、大切にしているからといってわかっているとは言いがたい。たとえば麻酔薬がなぜ効くのかは未だにきちんと解明されていないというし、西洋医学とはサイエンス、東洋医学とは経験知だと切って捨てるのも間違っている。洋の東西を問わず、なぜテレビが映るのか知らないままにテレビを見ているかんじで、なぜ人体がこうであるのかわからないままに人体をいじっている。そういうところでぼくたちは暮らしている。
ツボを突くだけで血圧が落ち着いたり胃腸がおだやかになったりするのは、中枢に向かう刺激が途中で交錯して近傍にある神経をうまいこと刺激するからだよ、とか、東洋医学の陰陽はすなわち交感神経と副交感神経のバランスに相当するんだよ、とか、自分の理解できない世界の言葉を自分がよく慣れた言葉に言い換えることで安心するというのは、人間がよくやる手法である。人の言葉が相手に届くかどうかは、相手の心の中にそもそもその言葉が「眠っていて」、それをピンポイントで揺り動かして覚醒させるかどうかにかかっている、相手の心に全くない言葉を投げかけてもそもそも受容できない、と言った人もいる。ぼくらはたいてい、大人になる途中で自分の使える言語をいくつか設定しており、これはそう簡単には入れ替わらない。他言語とのコミュニケーションをはかるために必要なのは一にも二にも翻訳作業だ。東洋医学を西洋医学に翻訳するのも、ぼくらがあくまで西洋医学の人間であるからに他ならない。
こういうことを書くとき、医学のことを書き始めたはずなのに、まるで夫婦関係のことを書いているようだなあとか、上司と部下のディスコミュニケーションについて語っているみたいだとか、教育現場における問題を揶揄しているのではないかとか、自分の好きな分野にも似たような関係が眠っているよと手をあげる人々の姿が見える。メカニズムと経験知の話は幾重にも積み重なった多重レイヤー構造、ないしは入れ子構造となっていて、ひとつの話題を皮切りに各人が自分の興味ある分野で似たような考察をする。ぼくは、同じカタチをした迷路に違う色のインクを流し込んでいるような、ある一つのプログラムを用意して初期値だけを入れ替えて結果を眺めているような、筋道は一緒なんだけど背景とか前提とか初期値を変えるだけの会話、というものを想像している。
ぼくの根幹となっている迷路、あるいは回路というのは何なんだろう、と探りを入れる。
なんとなくだけど、「複雑系」と、「今あるものは適者生存の結果」という2つの理論が、ぼくの全ての思考の背後にあるような気がする。
栄養剤ひとつで体がよくなるわけないじゃん、人体は複雑系であり巨大な緩衝系なんだから、と人を諭そうとしつつ、でもこの人は40年間、外界から刺激を受け続けた結果いまこうしているわけで、もはやぼくの言葉ひとつでどうこうなるわけがないんだよな、だって人の意識だって複雑系だもん、みたいに、自分の殻にこもる。
ぼくが作り上げた心の殻もまた、38年の生存の結果作り上げられた産物で、こうなるしかなかったし、こうなってよかったんだろうな、と落ち着いたりする。
耳かき一つでこういうめんどくさい話題を広げてくるタイプというのがどうにも苦手だ、そう、面と向かって言われたこともある。しかし、このブログに関して言えば、こういう話題をなんとか自分に取り込んで、自分の心の中にある迷路と比べて、違う色のインクでも流して見ようかな、と、思ってくれる人を読者対象として想定している。「大切にしているからと言ってわかっているとは言いがたい」、「ものごとを俯瞰して見られるのはせいぜい自分の過去までで、自分の現在を俯瞰しているとうそぶく人はほら吹きだ」、「言葉は何かをゼロから産み出すものではなく、すでに胎動していた何かをさらに激しく動かして、殻を内側から破らせる手伝いをする程度のものだ」、「何かを信奉している人をまるで宗教みたいだねと罵る人は、何かを信奉している人を全部宗教に例える教の信者である」、こういう言葉を見た時に、「ああ、まあ、自分ならこう言うだろうね、でもまあわかるよ」くらいのリアクションをしたがる人たちが、ぼくのブログを覗きに来てくれるのかもなあと思っている。