2016年12月9日金曜日

タモリ倶楽部読書特集回のゲストにあこがれた男

仕事が忙しい時ほど、わりと本も読んでいる。理由はたぶん、「移動時間が長くなるから」だろう。

出張が続くと、機上の人でいる時間が増える。札幌からの空路移動はどこも1時間以上かかるから、1時間は読んでいられる本を探しておく。

1時間ちょっとで読み終わる、あるいは1時間で閉じてまた数日後に開いても違和感なく読み進められる本であればベターである。


だからだろうか、一時期、「長編」から少し遠ざかり、ブログを本にまとめたような書籍をよく読んだ。ツイッタランドの中にはバケモノがいっぱいいるから、「よく読んだ」なんて書いてしまうと怒られるんだけど、札幌市中央区北3条東8丁目5番地周辺に住んでいる人の中ではおそらく一番読んでいるはずだ(これでも怒られるかも)。

で、ま、記憶に残った本は、数冊くらいかな。あとはほとんど読み捨てだった。それでもいい。そういう時間つぶしを求めているのだから。




みんな、「自分の一生を動かしてくれるような、新しい人生に突入するかのような体験」を語りたがっている。

ぼくだって、語りたい。

「この世界の片隅に」は絶対に見た方がいいらしいから、いずれ絶対見ようと思う。

「私は咳をこう診てきた」を読んだのはぼくにとってとてもいいことだった。

「ニーア・レプリカント」の記憶は一生消えないだろうなあ。


でも、最近のぼくは、自分がどういう人間かというのをとことん突き詰めて考えたところ、ある暫定的な結論を得ている。

瞬間的に通り過ぎてしまう文芸を積み重ねたところに、ぼくが立っている、ということ。

ぼくは、「何か偉大な一つのものに変えられて今こうしている」のではなく、「もう思い出せないほど無数の出来事と、無数の作品によって、細かく少しずつ脳にパンチをくらって、酔いながら今こうしている」のではないか、ということ。



どっぷりと濃厚な体験というものを、できればいいなと、いつかしたいなと、そういうことを言いながら、事実、いろいろなところでぼくは、そういう話をしてきたのだけれど、結局何年経ってもこの先、ぼくを作っていくのは「結果的に覚えていられない、短文の数々」なのではないかと、少し悲しい思いで、しかし確信に近い光景の中に、立っている。