「5.がんは、転移する。」の話。
がん細胞は、「異常増殖+不死化+異常分化+浸潤+線維化」を伴う。例外もいっぱいあるが、基本はこうだ。
これで、なぜ人を殺せるのか。
がん細胞が、不死化を伴い異常に増えるなら、増えた場所を取り除けばよい。浸潤して線維化を伴うなら、線維でガチガチになった場所をすべて取り除けば完治するはずだ。
いわゆる、「手術」の理論である。
病気が1箇所に固まっている、すなわち「カタマリ」の病気である腫瘍は、手術で治すのに向いている。では、手術が向いていない病気とはどんな病気か。
カタマリではない病気。たとえば、高血圧とか、ウイルス感染症とか、体全体に影響があったり、そもそも同時多発的に病気が影響しているようなもの。
そして、転移を繰り返しているがん。全身に、同時多発的に、がんがあると、採っても採っても、きりがない。
がんの性質として、異常増殖、不死化、異常分化、浸潤、そして線維化を扱ってきたが、何よりも人の命をおびやかすのは、
「転移」である。
よく考えると不思議な話だ。本来、大腸にある細胞は、大腸ではたらくために特化しているはずだ(それを分化と呼んだ)。さらには、大腸にある細胞は、大腸だからこそ生きていける。細胞には細胞毎にホームグラウンドがある。ホームを離れて、アウェイに浸出すると、生きていけないのが普通なのだ。
大腸がんが肺や肝臓に転移するとき、そこには無数のメカニズムが潜んでいる。そもそも、大腸の粘膜にあったはずのがん細胞が、肺や肝臓に移っても生きていけること自体が非常識である。体はそれほどアホではない。突然肝臓に現れた、大腸由来の細胞に、栄養をいちいち与えるなんてことはしないのだ。肝臓は、大腸の細胞を生かすようにはできていない。
だから、がんも、考える。
・(前回少し話した)線維化を引き起こし、自分の足場を作ることで、アウェイをホームに作り替えてしまう。
・低酸素、低栄養でも生きていけるように、自分を改造する。
・少しでも遠くの土地で生きていけるように、小さく、細かく、隣同士との連絡を解除して、孤独な潜入捜査員となって、血管やリンパ管に入り込む。
・アメリカの人がフランスに行くと言葉はあまり通じないが、イギリスに行ってもオーストラリアに行っても言葉はある程度通じる。だったら、転移先として、ある程度言葉が通じる場所を選ぶ。
・血流に乗って全身をぐるぐる周り、ここから生きていける、という場所で「下車」して、棲み着く。
これらは全てたとえ話だが、実際のがん細胞はこれらの機能を複数、もしくは全て備えている。すべてが、研究のターゲットとなる。
そう、ここまで、がんの話を6回にわたって書いてきた。さすがに気が滅入る。細胞が異常に増えて、不死化して、おかしな分化を示して、浸潤して、線維を増やして周りを破壊して厚さや硬さを増して、そして転移……。これらはすべて、
「研究」
されている。人間の知性をバカにしてもらっては困るのだ。がん細胞なんぞに、なめられてはいられないのだ。
がんが、異常に増えるのはなぜか。どんな遺伝子変異が、がんを異常に増やしているのか。不死化のシグナルは、分化の誘導因子は何か。浸潤に関わるタンパクの種類はなにか、線維化の誘導をもたらすサイトカインはどれか、転移を可能とするメカニズムはなにか……。
すべてが、研究のターゲットであり、創薬や新治療のカギを握る。
病気を研究することは、それだけで科学の色合いを帯びる。研究者は、聞いたこともない横文字の略称を日々ころがして、細胞内で異常に増えたタンパクを光らせてみたとか、どのタンパクがどのタンパクと結合したとか、ヒストンの位置がちょっと変わるとFRET蛍光でわかるとか、メチル化がどうしたとか、サイトカインの伝播が化学波で近似できるとか、まるで病気と関係ない呪文のような言葉を話す。
それはサイエンスであり、またアートでもある。わかる人しかわからない。興味ある人しか金を出さない。
けれど、その先に、たぶん、全ての目標ではないけれど、一つの目標として、「病気を治す」というゴールが、あったりなかったりする。
病理医もまた、がん細胞を見て診断をする「だけ」の毎日に、
「核内のクロマチンが増量しており、核の大きさも増している。核形状も凹凸があって不整だ。核膜も厚いところと薄いところがまちまち。すなわち、増殖異常がある」
「核分裂像が頻繁にみられる、異常核分裂像もみられる。増殖異常がある」
「アポトーシスがみられる。プログラム死が起こっているが、プログラム死を起こした細胞の場所がおかしい。プログラム死異常が存在する」
「正常の高次構造をうまく模倣できていない。腺管の形状に不整がある。正常細胞に発現しているはずのタンパクが免疫染色にて確認できない。一方でがん抑制遺伝子により制御されたタンパクが異常に集積している。分化異常が疑われるし、増殖異常・不死化のシグナルも入っている」
「粘膜筋板が消失して腫瘍が粘膜下層に浸潤している。周囲にdesmoplastic reactionを伴う。浸潤と線維化が認められる」
「リンパ管の中にがん細胞が見られる。転移のリスクが○%高い」
といった、意味づけ、ストーリー付けを行っている。細胞を見て、患者の行く末を見て帰ってきたタイムトラベラーのような顔をする。ぼくらは呪文のような言葉を繰り出す。
患者と医療者は、共に、最前線で病気と戦う猛将達である。彼らが、正しい戦略の元に戦えるように、軍の中枢で大局を見通し、戦を知り、彼我の戦力差を測り、軍略を計る、軍師のような仕事が病理医である。
呪文を使う病理医だから、三国無双バージョンだな、と、思うことがある。ビームを放つ日も近い。