2017年1月26日木曜日

アードベッグが飲みたいかんじがした

最近減ったのだが、でも、まだある、ということを書く。

誰かに何を話しているときに、言葉が花開き、思考が曼荼羅のように広がってしまうことがある。

ある話題に乗っかって話していたつもりが、自分の言葉や、脳内の風景に、次々に感情を刺激され、新しい風景が次々とやってきて、それらを描写したり考えたり新たに言及したりしているうちに、元々話していた内容がなんだったのか、もはやどうでもよくなってしまって、相手の興味があった話がなんだったのか、本当にどうでもよくなってしまって、背高草の中をずんずん進んでいくような、ひまわり畑の奥に何があるのか突進してしまうような、奥の奥の奥まで潜り込んでしまって、いつしか当初の興味標的を外れて、思考ゲームの中で前後不覚に陥って、ある瞬間に話し相手のぼうぜんとした表情に気づいて「あっ、違ったね、今そういう話じゃなかったね……」と気づかされる、などということがある。



この話をすると、10人のうち、2人くらいが、あるある、あるよね、と理解してくれる。でも、2人くらいだ。

たいていは、「集中力がないんだね」「人と会話するつもりがないんだ」「自分の中で完結してるんだね」みたいな顔をされる。

自分の言葉は、自分の脳内イメージを具現化するためだけにあって、誰のためにもならない、誰かの希望に添えない、誰も楽しくしないものなのではないか、と、激しく落ち込んだりもする。

激しく落ち込んだ記憶をひとつひとつ紐解いて、いや、ま、結局その程度の話し相手だったからだよ、いわゆる自分の中での優先順位がさほど高くない会話だったんだよ、本当に言いたいことをマスクしているうちに、そのマスクが外れて、心がひとりでに語り始めてしまったんだよ、そんな感じの、弁護に出会うこともある。

まあ、うん、まずいことだけど、しょうがないよね、と、ひとりごちる。



でも、ほんとうに、悪いことなんだろうか。

言葉が言葉を連れてくる、感情が潜在意識を呼び起こす、鏑矢が大戦につながる、そんなシーンがあるのは、ごくまっとうな、あり得る思考スタイルではないのだろうか。

とっかかりの話題なんて、ぼくらにとっては、極論すれば、どうでもよくなってしまうんだ、そういう瞬間、そういう人間関係というものが、ないのだろうか。



あんまり人前で話すような内容ではないと思っていたので、今までどこにも書いたことがない話だ。けれど、このブログを書いている今日、たまたまタイムラインで、自分の尊敬する人間が書いていた。似たようなことを、書いていた。

ああ、あるよなあ。

そう納得してしまった。



ぼくは、起承転結とか、序破急とか、きっかけから展開してなんらかの結論を導いて納得し共感してほっとする、そういう会話を、心のどこかで、軽んじているのかもしれない。

会話の根本のところに、セレンディピティのような、天から何か降りてくるoccur to me的な、交通事故的な何かを、望んでいるのではないだろうか?

それがぼくの、ぼくらの、根っこのところに存在してはいないだろうか?