2017年1月18日水曜日

相互フォロースタジアム

今日も楽しく事務作業、デスクにずっと座っている。PC2台と顕微鏡と仕事をしており、1台にはずっとツイッターが稼働している。こういう仕事は世の中にどれだけあるのだろうか。ラッキーなのかどうかはわからない。

昼間のツイッターは、「デスクにずっといる人たち」が多いようにも思う。もちろん移動中にスマホで飛び込んでくる人も、家のソファからiPadでだらだら接続しているやつもいるだろう。ただ、まあ、おそらく、自分の伴侶よりもPCと一緒にいる時間の方が長い人たちが多い印象はある。だからかな、思考回路も、自然と一部が揃ってくる。

このことを意識し始めたのは本当につい最近だ。夜11時ころのタイムラインに生きる人たちのツイートが、どうにもうまくハマらないなあと、なんでだろうなあと、考えていてハッとしたのだった。日本人であればわかりあえるとか、医療者であれば通じるものがあるなんて紋切り型思考にはすっかり飽きてしまっていたけれど、「昼型ツイッタラーであればわかりあえる」なんてこともあるかもしれないなあと、少し納得したりしてしまった。さてと、よくある話、自分の気づきに一番最初につっこむのは自分自身だ。まあ待て、そうでもないかもしれないぞ、と。

じっくりツイッターのタイムラインを見てみると、突拍子もないツイートをわさわさ見つけることができた。トレンドを見ても、全くわからない言葉ばかりが並んでいる。まあそうだ、そりゃそうだ、ここには仲間なんていない。いるのは、およそ180度の誤差含みで同じ方を向いているとされる人間に過ぎない。サッカー場に例えれば、ホーム側のスタンドに陣取って一緒にピョンピョン跳ねながらサッカーを見ている人間の中には、暴力的なやつもいれば、子供と一緒に観戦しに来た父親もいるし、実況のまねごとをしている事情通もいれば、アウェイ側と間違ってチケットを取ってしまった人だっている。そういうのを十把一絡げに「昼型ツイッタラー」とまとめて、まあ仲良くやろうぜと、半分以上あきらめながら、それでもタイムラインに片足突っ込んで仕事の合間にちらちら眺めている自分は、まあ、無知な幸福論者なのかもしれないなあと思ったりもした。

ところで、仮にだ、どういう人たちがタイムラインに溢れていたら、ぼくはそれをより幸せだと思うのだろうかと、少し思考実験をしていた。「なけなしの小遣いをはたいて好きなアーティストのCDを買い、くり返し聞きながらちょろちょろネットでアーティストのブログをチェックしたり、ぜんぜん関係ないバンドの対談を見たりしてる連中」? 「今年見ようと思っている少し古い映画を見る前につぶやいて、すでに見た人があれはいいよとお気に入りを押してくれることがうれしい人々」? 「お笑い芸人のポッドキャストを聴いて優しい感想だけを上げ続けているブログの主たち」? 「偶然仕事で訪れた土地の博物館をのぞいたあとで現地の市場で少し珍しい食材を買って帰り、現地のレシピをぐぐりながら自分へのおみやげと称して一汁一菜にもう一品おかずを添えるのが趣味のやもめ」? これらは全員、スタジアムに座っていなさそうだなあと思うんだけど、そういうやつらを集めてこようと思ったら、「昼間にタイムラインにいそうな人々」を地引き網みたいに大量にさらって、ちょっとずつリストに入れて眺めるしかないんだよなあ、長年地道に相互フォローを続けてきたからできなくはないよなあ、と夢を見たり、そのまま眠ったりしている(14:15)。