風景や人物の写真を、わざとモノクロで撮ったりセピアにしたりすると、ぐっと立ち上がってくる叙情のようなものがあるだろう。
人間は、ものを見るときに、ものの形……というか輪郭だけを見ているわけではない。
色調とか、色の差のようなものにすごく解釈をゆだねている。
それがわかるのは、プレパラートを「異なる染色法」で染めたときだ。
通常、プレパラートは、HE染色(ヘマトキシリン・エオジン染色)という方法で染める。
ちょっとネットから拾ってこよう。高知の病理センターのJPEG画像を勝手にお借りする。
左がHE染色。何が染まっているかというとこれは胃粘膜なのだが、まあ今回そういう解説はやめておく。
右側には、「EVG染色(エラスティカ・ワン・ギーソン染色)」が掲載されている。
ふたつを見比べると、「輪郭がおなじ」ことがわかるだろう。「全く同じ場所」を、2つの染色方法で染め分けて比べているのである。
まるで見え方が違うことはおわかりかと思う。ただ、実際、輪郭は同じだ。細胞や臓器の形をみるだけなら、どちらで染めても良さそうなものである。
この染め分けは、どうして行うのか?
臓器を顕微鏡で観察するとき、プレパラートを作るわけだが、このプレパラートには、障子紙よりもはるかに薄い「4μm」の厚さの試料が乗っている。
薄切(はくせつ)と言って、臓器をカンナのおばけみたいなやつでペラッペラに薄く切る。4μmというと髪の毛よりも薄い。ペラペラに切った試料は、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、基本的に「透明」である。
指のささくれとか唇の薄皮だって、うすーく剥くと向こうが透けて見えるだろう。それと一緒だ。
このままでは、細胞の輪郭など絶対に見えないから、染色をする。特に、細胞の核と細胞質という構造物はきちんと見極めたい。
この、細胞の核とか細胞質を見極めるという作業、あるいは臓器の全体をきちんと観察する作業に最も向いているのが、HE染色であると言われている。
ぶっちゃけて言えば、「コントラストがはっきりしていて、見やすい」。
左のHE染色と、右のEVG染色を見比べると、画面の上半分……胃の粘膜(ねんまく)と呼ばれる部分の見え方がだいぶ異なることに気づく。左は、グラデーションがきれいである。粘膜と一口に言っても、いろいろな細胞の種類があるのだなあ、ということが、このHE染色を見るだけで一目瞭然だ。
これに対し、右のEVG染色では、粘膜の部分はなんだかセピアで、どこに何があるのか一見してわかりにくい。
だから病理医は、ほぼ100%のプレパラートを、最初、HE染色で見るのである。これが万能なのだ。HE染色だけで、8割以上の診断を付けることができる。
ただ。
染色を変えることで、HE染色よりも見やすくなる構造物というのもあるのだ。
もう一度、さっきの図を見てみよう。
図の真ん中あたりに、クリームパンのように波打った横長のリングがある。
これは、血管である。
HE染色だと、ピンクのべたっとした壁として認識できる。
一方、みぎがわのEVG染色だと、なんだか黒っぽいふちどりが見える。このふちどり(というか、血管の梁(はり)のようなもの)は、HE染色ではよく見えない。
実はEVG染色は、血管を見やすくする目的で使用される染色である(ほかにもオタクな使用法がいっぱいあるのだが)。
別にHE染色でも血管はよく見えているじゃないか、と思われるかもしれない。ただ、ちょっと考えてみて欲しい。左側の画像の中で、「ピンク」に染まるものは血管以外にもいっぱいある。
たとえば筋肉。たとえば線維化。たとえば硝子化。HE染色でピンクに染まるものというのはほんとうにたくさんあるのだ。実際、HE染色の画像のベースはピンク(あちこちにピンクがある)というのはおわかりだろう。
図の下側で、帯状のピンク色として染まっているのは、筋肉(平滑筋)である。この中に血管が埋まっていたとしたら、HE染色でぱっと気づくことができるだろうか?
EVG染色なら気づけるのである。なぜならば、HE染色では見えない、黒緑色のふちどり(弾性線維)が見えるからだ。
おもしろいことに、いったんEVG染色で血管を確認したあと、HE染色をよーく見直すと、輪郭のこまかな違いなどで、HE染色でも血管(あるいは弾性線維)を見極めることができるようになる。人間の目、あるいは脳に、「ここを見たら良いよ」という気づきを与えると、見て理解できる範囲がぐっと広がるのだ。
HE染色の画像にフォトショップなどで処理を加えたら、EVG染色のような効果が得られるだろうかと、いろいろいじってみたこともあったが……。今のところ、個人の趣味レベルではEVG染色を超えることはできないでいる。
EVG, Azan, Gitter, PAS, DFS, Grocott...
HE染色以外の染色(特殊染色)はたくさんある。
さらに、これに、免疫組織化学(いわゆる免疫染色)という手法も追加することができる。
カメラマンが、露出をいじったり、補正をかけたりしながら、かつ実物を超えた加工にならない程度に、被写体をうまく浮かび上がらせるように。
病理では特殊染色によって、「被写体」がきちんと浮き上がってくるような試みがなされているのである。
なお、これらの染色は、「臨床検査技師」の手によって行われる。昔の病理医は染色も自分でしたというけれど、今のぼくにはこれらの染色をきちんと仕上げる技術がない。うちの技師さんたちは優秀で、プレパラートは極めて美しい。いつもお世話になっております。