書いたことがある話題を、延々と書いていた。
たった今消した。
「病理の話」には、そういう「二度目の記事」がいくつかある。でも、ま、病理の話ならば、同じ内容を何度か書いても許されるんじゃないかな、と思う。なにせ世の中には病理の話が少なすぎる。多少しつこいくらいでもいいんじゃないかな。いちおう切り口は変えておくからさ。
けれど、病理の話の合間にこうして「箸休め」として書いている記事の方は、別である。「病理の話じゃないほう」で、自分が前に触れた話題をもう一度とりあげるのは、とても恥ずかしい。
まず、同じ話題を二度語ってしまうというのは、ぼくの場合、基本的に「無意識」である。
よっぽどこれが言いたかったんだね、前にも言ってたもんね、なんて指摘されて、はじめて気がつく。ああ、やっちゃった。
「うちのおじいちゃん、酔ったら同じ話を何度もするのよ」みたいなやつじゃん。
「課長が新人に必ずする訓話があってよォー」みたいなやつじゃん。
恥ずかしい……。
この不幸な事故を減らすためにはどうしたらいいだろう。
ここはひとつ、「このブログでは、○回目には必ず□の話をします」と宣言してしまう、というのはどうだ。
ぼくがつい何度かしゃべってしまいがちな話題はいっそシリーズ化してみる、というアイディアだ。
……。
同じ話題を同じ展開で同じオチまで持って行く快感におぼれ、しかも前に一度披露していることを忘れてブログに平気で複数回同じ話題を書いてしまう人間が、「○回目」の数字が増えるたびにちょっとずつオチをずらしておもしろいことを言う、なんて芸当ができるわけがない。
破綻が目に見えている、やめる。
「してやったり系のネタ」を言おうとする欲を捨てよう。
「うまいこと言う人」になりたがる欲を捨てよう。
狙い球を絞るのではなく来た球を打つようにする。
先の先ではなく後の先を取るようにする。
これならどうだろう。
……。
実際、「関西方面のお笑い」にうるさい人は、これを徹底している。
ネタは毎回違うが構造が毎回同じ、という関西のギャグ的な空気はそうやってできている。
破綻はしないだろう。安心感はある。
けれど、道民は関西人には決してなれないのだ。
なれないんやで。ごめんがな。
一度言ったことを忘れない人間でいたいけれど、もう、なんだか、無理な気がする。
毎回おもしろい話をネタ被りなく披露できるおもしろおじさんでいたいけれど、狙う時期を逃したし、方向性も間違っている。
そうか、そうなんだ。
きっと、ネタ被りをおそれ、自分から出てくる話題の少なさにおびえ、おもろないんやでんがなとか言われるのがつらいから、「芸能とか社会情勢の短報に飛び付いてリアクションすること」が発信の主軸になってくるんだ。
ああ、自分から何かを発信するって、難しいんだなあ……。
ちなみに人がなぜ芸能とか社会について反応したがるのかについては、以前にもこのブログで書いたことがあったはずです。