バンドミュージックは多様すぎる。出不精なぼくはタワレコで試聴を繰り返すことなどしていない。ライブハウスの開演直後から5時間くらいはりついて聴いたことのないバンドの曲を知ることもしない。初老のマスターが黙ってたばこをふかしている飲み屋でスペースシャワーTVを延々と見ることもない。ただ毎日をばくぜんと送っている。音楽に対して足を運んでいない。20年前に中年だったら、きっと、とっくにバンドミュージックを追いかけることはできなくなっていただろう。
セイタカアワダチソウの生い茂る草原にぽつりぽつりと野球ボールが落ちている。そのどれかを欲しくてしょうがない。きっと手にすればうれしくてしょうがない。けれどぼくは草原を歩かない。だから、もう新しいボールは手に入らない。
バンドミュージックを好きになるというのはそういうことだった。
けれど今は、インターネットがありツイッターがある。
今日ぼくは中年でいて、職場と自宅と出張先の三角貿易しかしていないけれど、それでも新しいバンドを知り、新しい曲を聴くことができる。
「本来であれば出会うきっかけがなかったもの」。
「人の意見」とか「小さな事件」とかもそうだろう。余計なもの、自分を傷つけるもの、悲しい気分にさせるものもいっぱい入ってくる。
黙って座っているだけで自分に都合のよい情報だけが勝手に飛び込んでくるような都合の良いシステムではない。
喧噪に飲み込まれてしまわないように、ある程度、能動的に選択する必要はある。自分の必要なものだけを取り込むシステム。
今のところ、「音楽」とか「本」などにおいて、ぼくはうまいことやれているように思う。
窓口を広くするだけでは、ホメオスタシス(恒常性、いきものが新陳代謝しながらも同じ状態であり続けること)は保てない。敵も味方も入りほうだい、では困る。
むしろ、窓は閉じる。壁をきちんと用意する。その上で、「能動輸送するためのチャネル」をきちんと置いて、自らに害を為すものをはじきかえし、有用なものだけを取り込む。レセプターが反応する「よいもの」に対してだけ、窓口を解放する……。
まったくもって、「細胞」と一緒であるな。
そういえば。
生命の新陳代謝システムは極めて優秀であるけれども、これがうまくワークするためにはある条件を満たさなければいけない。
ある条件とは、細胞外に
「選べるほどたくさんのマテリアルが、そこそこ高速でびゅんびゅん動き回っていること」
である。
細胞が必要とする栄養が「やってきたら、取り込む」というシステムは、「やってこなかったら、餓死」してしまう。
例えば、空気の中には酸素や二酸化炭素が含まれているが、これらはすごい勢いでびゅんびゅん動き回って、あっという間に混ざり合う。拡散能が高い。
もし、酸素とか二酸化炭素が、もっと足が遅くて、なかなか混じり合わなかったとしたら、ぼくらは部屋の一箇所でじっとして息をしているうちにだんだん苦しくなってきたはずなのだ。
自分の周りにある酸素を呼吸によってぐんぐん消費しても、すぐに外から酸素がじゃんじゃか飛んできて混じり合うからこそ、ぼくらは一箇所に留まって眠りながら呼吸することができる。
窓口を開放せず、自分で良いモノと悪いモノを見極めて、良いモノだけを取り入れようとするとき。
窓の外では、喧噪がなければならない。情報が高速でびゅんびゅん動き回っていなければいけない。撹拌されていないといけない。
「自分の目を信じて、いいものだけを選んでやっていく」というのは簡単だ。けれど、周りに雑多かつ高速の物流がなければ、それは緩慢な断食になってしまう。
インターネットでありツイッターのいいところはまさにこの「喧噪」なのだろうな、と思う。
「背高草のざわざわっと、それ以外聞こえない静かな夏の風景。」
「でも俺 この喧噪に飲み込まれてしまう。」