今これだけ努力すれば、いつかきっと楽ができるからな、と言われてがんばって、無事望んだポジションにつくことができた人間が、今度はそのポジションを守るために、昔よりも多くの努力をしている。
そんなシーンを目にする。
「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」
そんな文脈すら、ある。
まあ確かにそういうやり方ってあるよな。
毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。
ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。
もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。
走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。
どうも人によって違うようだ。
毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。
ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。