2017年9月25日月曜日

病理の話(124) ワトソンであった理由

長いメールが届いていた。ある内視鏡医が記したものである。

まるで古典文学を読んでいるかのような気持ちにさせるそのメールには、現在、自分が「病理の手法」を用いて、ある疾病の発生メカニズムを明らかにしようとしているのだ、ということが書かれていた。

「だから君にも手伝って欲しい」

ではない。

「こんなことをやっているんだ。どうかな、おもしろいよな。どう思う? いや、感想だけ聞かせてくれればいい」

そんなニュアンスである。





「病理の手法」





ある疾病を、臨床医はさまざまな手段で見る。

「臨床の手法」を使って見る。

画像検査だったり、血液検査だったり、患者の訴えだったり、統計学だったり、さまざまな手法によって、この疾病はどんな形をしているのだろうか、と探る。

たとえばそれが、「縦に引き延ばしたホームベース」のような形に見えるとする(あくまで例えである)。


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こんなかんじ。

でも、この5角形のうち、先の尖った部分が重要なのか、側面の柱の部分が大切なのか、底辺の部分が意味を持っているのか、臨床の手法だけではわからない。

彼らは、だから、顕微鏡を用いたり、免疫組織化学という手法を用いたり、遺伝子解析を用いたりして、「病理の手法」で疾病をさらに探ってみたい、という考えに至る。



そしたら、この疾病はこのように見えたのだという。



……まるで違う形だ。そこで臨床医はピンと来る。

「ああ、これは、おそらく本当はエンピツの形をしているのだ」




エンピツを上から見れば丸くなる。

横から見れば先ほどの5角形になるだろう。

見る手法、すなわち見る角度が異なれば、見えてくる図形がまるで変わってしまうことはある。



そこで臨床医はぼくにメールをしてきたのだ。

「エンピツだと思うんだよ。よさそうだよな。あってるよなこれ」

ぼくは納得をする。病理医でなくても病理の手法は用いることができる。彼のやっていることはぼくから見ても極めて妥当だ。

先生、すごいですね。

彼は鼻高々となり、さらに謙虚さを増して学問に没頭していく。





……こんなことがよくある。ぼくは時折、何も自分で解析していない分野において、単に「聞き役」にさせられることがある。

ホームズにとってワトソンは必要ないと思うのだが。

ホームズたちは、ワトソンに話し掛けることで、自分の頭を整理しているのだろう。




なお、ぼくはメールに、このように返した。

「先生すごいですね、病理医だけでは絶対に見えてこない視点です。

なお、○だけじゃなくて、□のこともあるんですよ」




臨床医はピンとくるのだろう。「あっ、四角いエンピツってあるよな!」と。

彼の筆箱が途端に多彩になり、彼は驚喜して、そうだ、ロケットエンピツやシャープペンシルなんてものもあったなあ、と思いを様々に巡らせていく。




自分を名探偵になぞらえるのは楽しい。

ただ、ワトソンの何気なく発したひと言、それは必ずしも論理的である必要はないが、何かの世界でずっとやってきた経験が導く不思議な直感であればよく、その「名状しがたい直感」が、探偵に新たな視点を与えることがある。

病理医はときにワトソンであってもよい。




そういえばIBMが診断用に提供しているAIの名前はなんと言ったかな、と、ぼくが思ったのは、この記事を書く「前ではない」。

途中なのだ。

そういえば、と思った。単なる偶然である。

けれど、単なる偶然じゃないのだろうな、と、半ば確信している。