ファッチューチョン、だったっけ。
あってた。佛跳牆。
バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。
いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。
乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。
「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」
「味の余韻がめっちゃ長い」
「色々な生命の意識が入ってくる」
のだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。
昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。
緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。
酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。
アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。
そういう液体があるのだという。
人間の体ってこうだよなあ、と思った。
もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。
生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。
あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。
そんなやじろべえでいることに、メリットがある。
今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。
ある日は果実を手に入れた。
ある日はマンモスの肉を狩れた。
ある日は水しか飲めなかった。
それでも人は生きる必要があった。
それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。
いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。
「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。
「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。
すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。
……ところで。
西洋医学というのはおそろしい。
この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。
無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。
でも、西洋医学は、それを直してしまう。
まるで奇跡ではないか?
西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。
必死で臨床試験をやる。
万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!
そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。
奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。
ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。
慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。
そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。