2021年5月18日火曜日

病理の話(535) 発生学という巨大山脈

いつかやらなきゃなあと2年くらい考え続けていることがある。それは、胃腸の病理学について体系だった本を書くことだ。

すでに依頼は引き受けており、「あと5年くらいは他の仕事が忙しくて書けないからちょっと待ってください」と伝えてそれっきり放置してある。でも、1週間たりとも忘れたことはない(※最初は1日たりとも、と書いたのだがけっこう忘れている日もあるので正しく書き直した)。ここ2年のぼくはいつも胃腸の病理の教科書を頭の中で書いては消し、書いては消し、としている。



そもそもぼくはすでに胃腸の病理学について、すでに一冊の本を書いて出している。「Dr.ヤンデルの臨床に役立つ消化管病理」。王道かつ実践的な本。

https://www.yodosha.co.jp/yodobook/book/9784758110693/

胃カメラや大腸カメラを使う臨床医や、バリウム・大腸CTを扱う放射線技師、消化管超音波検査にたずさわる臨床検査技師などが読めるように病理のことを書いた。そしてもちろん病理医にも活用してもらいたい。一切妥協していない。簡単に書こうと思うあまり細部をぼやかしていることもない。濃いし多いししっかりしている。


しかし、今回の依頼者は、「この本とはべつに病理の本を書いて欲しい」と言う。正直、ぼくは「もう書いたよ」と思った。でもそうではない、と言う。さらに違う領域を書くべきだと言う。


専門性の高い消化管専門病理医のためだけに、「成書」を書いてくれ。臨床の診療にお役立ち~、ではなくゴリッゴリの学術をやってくれ。


それはかなり大変だなあ。

正直ひるんだが、断らなかった。指名があるというのは大変に光栄なことだし、大きな期待を受けた執筆に向けて自分のレベルを上げていくことがそのまま日常の診療レベルを引き上げることにもつながる。

ぼくは依頼のあったその日から、次の「成書」の構成をずっと考えている。



進捗状況。頭の中の教科書は、第1章のところで足踏みしている。ただし、2章、3章、4章、5章、6章くらいまでは脳内ではほぼ書けた。実際にはキータッチをする時間が必要だし、写真を選ぶにもぼうだいな時間がかかるし、文献を過不足なく揃えるだけでも異常な時間がかかるから、脳内で書けたからと言って実際の執筆作業がスルスル進むわけではないのだけれど、それでも1章以外の部分は今のぼくなら1年もあれば書けると思う。依頼の期限の5年まであと3年も残しているから、余裕ではある。

しかし問題は1章だ。ここが手強い。どうしたものかと2年間うろうろしているし、まだ終わりが見えてこない。さいしょのさいしょでつまづいている。



1章には、「発生学」を書くつもりだ。

発生学は病理学とは少し違う。正常の人体が受精卵からどのように育って「分化」していくか。病(やまい)の理(ことわり)よりも前段階の部分である。

胃というのは大変不思議な臓器である。発生学的にいうと、もとは小腸だ。胎児が母親のお腹の中にいる間、かなり早い段階で、小腸の一部分に「小腸以外の性質」をもった細胞が次から次へと現れてくる。

この「次から次へと現れてくる」というのが、近年の「胃がん」を考える上でじつはキーワードになる。正常の胃粘膜だけではなく、胃癌細胞においても、さまざまな性質をもった癌細胞が「次から次へと現れてくる」し、そこを消化管専門病理医は知恵と技術で鋭く射貫いていく。このとき、発生学の知識が病理学にも適応できる。

先達たちもそんなことはよくわかっているので、「胃」病理の教科書ではたいてい、発生学の話がきちんと書いてある。それでもぼくは多くの教科書を読むなかで、発生学についてはまだまだ述べられ切っていないのではないか、というひそかな確信があった。自分が教科書を書くならば発生学の部分を大幅に強化すべきだろうと考えた。


そしてこれが本当に手強い。なかなか脳の中に全貌が見えてこない。医学書・教科書では「全貌が見えないうちに書き始める」ということは基本的に不可能である。これはぼくだけの話だろうか? いや、そんなことはないと思う。


発生学というのはそれだけで学問のいちジャンル。巨大な山だ。そして剣が峰を「病理という山」と共有している。しかし、発生学山と病理学山の最高峰点はいっしょではない。病理というとんでもない山を登るだけでもきついのに、発生学の頂点まで登っていかないといけない、これは病理医であるぼくにとって2年ではどうにもならないほどに厳しい登山である。

すでにある発生学の成書や、多くの病理医たちが書いた優れた教科書を、何度も何度も読みながら、「なぜ自分はこの登山道を選んで病理という山を登ろうと思ったのか」を考えていく。「なぜその道が他の登山者にとっても優れているのか」を言語化しないと教科書の執筆がはじまらない。


ちなみに「胃の病理を考える上で発生学を濃いめに書いておいたほうがいい」程度のアイディアなんて、普通の病理医ならば当たり前のように思い付くものである。それでもこれまで世に「これぞ」と思った本が存在していないのは、それがいかに厳しい登山であるかの遠回りな証拠になっている。


果たして今回の本ばかりは書き終えられるかどうかわからない。そもそも執筆を開始できないかもしれないな、と思いながら、2年間、考え続けている。あと2年ほど考えてから執筆を始められれば理想的だが……。今回はきつい、かも、しれない。望むところではある。先に誰か書けそうな人がいたら書いていただいてよいですよ。そしたらぼくはそれを読んで勉強して日々の診療に活かす。