2022年9月12日月曜日

病理の話(695) ある日の専門家との会話にて彼は気を遣っていた

うちにバイトに来てくださっている病理の先生と、一緒に顕微鏡を見ながら(数人で同時に見られるタイプの顕微鏡というのがあるのだ)、ある患者の病理診断をどのように書くかという話をしていた。

ある患者……臨床診断:がん。

主治医はこの病変が、とある種のがんだと思っている。しかし、細胞を見ずにそれががんだと言い切ることはできない。世の中には、「がんに似た見た目を示す、がんではない病気」もいっぱいあるからだ。そこで主治医は、病気の表面から細胞を採取する。これを病理医にみてもらって、がんか、がんでないかを判断させるのだ。

そして病理医である我々は今、それを見ている。

がんではない。

一目でわかる。

組織を構成する細胞は明らかにがんとは異なる細胞によってできている。ぼくはふと、「ああよかった」と思うが、すぐに思い直す。「がんでないなら、なんなんだ」

組織の表面に整然と配列する細胞のすぐ下、顕微鏡でなければ見えない部分に、たくさんの炎症細胞がある。これらは、何らかの刺激に反応して出てきた、体内の警察部隊だ。

炎症というのはいわゆる暴力的な解決方法で、細菌やウイルス、毒素のようなものを攻撃して倒してくれる。その際に、周囲にある「善良な組織」にもとばっちりのような被害がおよぶ。炎症自体は体をまもるために必要なのだけれど、まるで警察が犯人に向かって発砲して、その弾が商店街のお店のガラスを突き破る、みたいに、「正義の暴力」は善良な人びとをも傷つけることがある。

この炎症によって、組織の表面にならんでいた細胞にも悪影響が出たのだろう。配列がみだれ、構築がおかしくなることで、「あたかもがんのように」表面から見たときに異常が生じる。



というわけで、ぼくは病理診断を、「がんではありません。炎症です」と書こうとした。そしたらバイトの病理医が言うのだ。

「主治医はがんを疑っていますので、報告書に単純に『がんではないです』というとびっくりしてしまいます。」

……たしかに。医者も人間だ。思っていたものと違う検査結果が返ってきたら、まずは「驚く」だろう。

「ですから、驚かせるだけではなくて、根拠を詳しく述べて納得してもらいましょう。さらに、『なぜあなたはこれをがんと見間違えたのか』についても、報告書を読めば感じ取れるような説明をするのがよいと思います」

なるほど大事なことだなと思った。「お前の診断は違うぞ。病理医が顕微鏡を見た結果のほうが正しい。」と、大上段から唐竹割りにするような報告書を書いても、主治医はにわかには受け入れられない。……いや、スネて結果を無視するみたいなことはしないのだが、「なんでだよ。俺にはがんに見えたんだよ」と、モヤモヤする思いが残ることは間違いない。

そこで、「なぜこの病気は、がんではないのに、がんに見えたのか」を説明するところまでやるのが病理学だということだ。ぼくらにはそれができる。「似ていたから間違えたんですよ」で解説を終わらせず、「なぜ似ていたのか」のところも解析するということだ。




当院では複数の病理医にバイトに来てもらっている。バイトの先生方は、週に1度、あるいはそれより少ない頻度でしかいらっしゃらないので、数日かかるような仕事をふることはできないし、事務作業をあてがうのももったいない。あくまで限定的な仕事しかしてもらえないのだけれど、それでも非常に助かっている。

「助かっている」理由のひとつが、バイトで外から病理医を呼ぶことで、「自分とは違う病理医の、診断書の書き方・考え方を見て学ぶことができる」ということだ。

「病理医にはそれぞれ、主治医のためにこうしたらよいのではないかと考え抜いた信念」みたいなものがある。複数の病理医がいればそれだけやり方も多く存在する。たとえば今例にあげた病理医は、「主治医にとても上手に気を遣える人」であった。主治医の「誤診」を病理医がレスキューして終わるだけではなく、その間違いがなぜ起こったのかというメカニズムまで解明して伝えてあげることで、主治医は次に似たような患者をみたときに、「同じ間違いをおかさなくなる」かもしれない。そういうことのくり返しが医療の精度をあげていく。


バイト助かる。バイト最高だ。しかしあまり雇いすぎると、病院の事務におこられる。「きみんとこ、売上げには貢献してないのに(※病理医は患者に処方をしないし手術などもしないので、病院に大きなもうけを与えることができない)、ずいぶん人を雇おうとするね?」すみません、人件費って一番高いですよね。なぜなら、人が複数いて経験を伝え合うことこそが、医療従事者にとっても患者にとっても、最高の環境を保証してくれるからですよね。マジすんません。気を付けます。来期は。たぶん。