「テレビなんて見てないよ」がある種の合い言葉であった20年前にぼくらは学生だった。「大衆と違うことをしている」というところが自我の境界面をつくる上でとても大事だった。
そして、今や、みんながみんな、違うことをやっている。「大衆」がなくなった。「Twitterで今いちばん有名なネタ」を家族や友人にふっても10%くらいしか理解を得られないのは昔とかわらないけれど、「バリバリの陽キャが最近ハマっているポップな音楽」も社会の10%未満の人しか理解できない。最大公約数的な文化がいつのまにかなくなっている。
そして、おもしろいことに、昼間のTwitterでトレンドにあがるのは、朝ドラやラヴィット、月曜日であれば大河ドラマの感想ばかり。少なくとも見た目上は、テレビがトレンドを席巻しているのだから驚く。
各人の趣味が拡散しすぎてマジョリティが消失した結果、受像機の所有割合が高くて、即時性・共時性にかんしてほかの媒体よりもやや優位な「テレビ」が、ほかのコンテンツの獲得票数が下がった中で「頭ひとつ取り残された」かのように、毎日トレンド上位に躍り出る。もっともこれもかりそめの順位なのだ、世の多くの人びとは、ラヴィットをやっている時間には仕事や学校でスマホから離れている。「今日川島が言っててトレンドにもなったアレ、見てた?」と周りにたずねて答えが返ってくることはめったにないだろう。1億のうち数百万人「だけ」が見て、その中の100人くらいが声を出して盛り上がることを「トレンド」と呼ぶ。
長らく引用し続けてもうオリジナルのトークを忘れてしまったけれど、昔、福山雅治がラジオで、「今の子どもは親に対する反抗期というのがないらしい。なぜなら、親以外にも学ぶべきセンセイ、センパイが、大量にネットの中にいて、親だけを見て育つということがないからだ。親を見て育ち、自然と親に似て、自分だけのアイデンティティを作る上で親から決別して親との違いを出すことが、昔の子どもにとっては必要だったから反抗期があった。でも今は、親と違うものを見て、親と違う人間に最初から育つ。だから、親に反抗する必要がないし、親もまた『たまに参照できる先』でしかないのだ」と言っていた。ぼくはこの話が好きでずっと覚えている。
そして、「トレンド」とか「みんなが盛り上がっていること」みたいな話も、これと根っこの部分で共通しているのではないかと思う。
親や学友、同僚などの、リアルに距離を詰められる人、と共有できるものの数がどんどん減っている。「テレビなんて見てないよ」だけではもはやアイデンティティにはなりようもない、なぜなら、「見ていない人のほうが多い」からだ。相違が増えた世の中で、「何かを否定すること」をもって自分の境界面を定めようとすることは無理ゲーに等しい。今もなお、中年以降の、社会的地位がそれなりにあるタイプの人が、
「私はテレビなんてくだらないものは見ないからなあ」
「Twitterはぜんぜんやってません。この先やろうとも思いません」
みたいなことを平気で口に出す。否定でアイデンティティを作らなければいけなかった昔の人間だな、という感想である。社会への反抗期はあなたにとっては必要だったのだろう。しかしそれはもう流行らない。今はそういう世の中ではないのだ。テレビもTwitterも見ないからそのことに気づけなかったのではないか。