日曜日の夜に手帳を見て、「今週は火曜日と木曜日はわりと余裕があるな」というのを頭に入れる。「月曜日と水曜日と金曜日は、診断と会議でぎっちりだから、論文の手直しは火曜日に、原稿を書くのは木曜日にやろう」と考えておく。
月曜日がくるとメールが届いて、今週どこかでウェブ会議をしましょうと言われる。SlackからもChatworkからも、Facebook messengerからも連絡が入る。火曜日と木曜日が空いているので片っ端から予定を埋めていく。
そうやって一週間を過ごす。土曜日になって手帳を見返すと、「今週は火曜日と木曜日が一番忙しかったな……」という感じになっている。フリクション(消せるボールペン)がほしい。手帳が汚い。
こういう週が続いた。
おかげでちかごろは、あらかじめ決まった仕事が入っていてこれ以上は働けないだろうと思える日……上の例で言うなら月曜日と水曜日と金曜日……の、朝、昼飯を食った後、そして夜の会議と会議の間、ときにはZoom会議中に、論文や原稿を書く。教科書を読んだりPDFをまとめたりするのもそういう時間だ。どうせ火曜日と木曜日はつぶれるだろうからだ。
最初から忙しいとわかっている日は、脳がそのつもりでキリッとしているから、じつは仕事がしやすい日である。
「予備日」ほど、直前に入った急な仕事をやるのに使わなければならない。また、そういう仕事は頼む方も頼まれるほうも、事前にねんいりに考えていないことが多いので、働きながらフィックスしていくというか、自動車を運転しながらパンク修理を進めるみたいなかんじになってしまう。
こうして逆転が起こる。倒錯と言ってもよいかもしれない。
「今日はヒマな日」と口に出すのが、ときに「フラグ」だと言われる理由がわかる気がする。
油断している日ほど忙しくなるのだ。
とはいえ最近はうまく油断することが必要だなと感じる場面も多い。ずっと気を張っていたら疲れてしまう、という理由はあるが、それ以上に、そもそも「気」というのは同じテンションで張り続ける洗濯ヒモのような存在ではなくて、勢いを付けて引っ張ったり緩めたりをくり返すことで、何かをはね返したり飛ばしたりする力をまとう、弓とかパチンコのようなものなのだと思う。緊張と弛緩のどちらかが大事なのではなく、両方あわせてひとつの「運動」になるということ。
たとえば、創造……はぼくはそんなにしないけど、調整を必要とするタイプの、脳の複数箇所を同時に動かすような仕事のときには、安定したテンションと瞬時の爆発力の両方が求められる気がする。顕微鏡を見て診断を考えることひとつとっても、典型的な病気のことばかり同じテンションで考えていると数十~数百例に一度の割合で、「普通の思考回路だと騙されてしまう、難しい病理組織像」に出会ったときに、頭が真っ白になってしまうというか、「どうやってもいつも通りのことしか思い浮かばなくなってしまって、非典型的でまれな病態について頭が思い至らなくなる」のである。
それがわかっているからこそ、仕事と仕事の合間にバッファをもうけて、ひとつ診断するたびにツイッターに気をそらして頭をフラットにして、みたいな、集中と拡散を交互にくり返すような働き方をずっとしてきたのだが、最近はその、「ゆるめるための時間」に飛び込んで来る仕事が多くてちょっとハラハラしている。人と関係する数が増えてきたからしょうがない。30代くらいまで、狭い範囲に全力を集中できたことが幸せだったのだ。今までぼーっと眺める程度だった、ぼくが20代くらいのときに40代、50代で、何かでかい仕事をするわけでもなく部下のサポートばかりしていた人たちのことを最近はよく思い出す。彼らもこういう時間を過ごしていたのだろう。なるほどなと思う。なるほどなあ、と思う。