解剖生理学の本を書いているのだが、話の通じる医療者に原稿を見せると、「うーん、普段ここまで考えずに働いてるんだけど、やっぱこういうのって、本で勉強しておいたほうがいいのかなあ」という返事が来た。かなり本質的な感想であるなあと感じた。
臨床現場でよく言われることとして、「学生時代に習った解剖生理の知識は、現場にいるときにこそ必要だと思うんだけど、今になるともう勉強する機会がない」というのがある。非常に多くの医療者が同じようなことを言う。しかし、ならば、世の中には「社会に出てから学べる解剖生理学の教科書」がもっとあっていいはずだ。なのにそういう教科書があまりない(あるけどそこまで売れていない)ということは、つまり、現場で役に立つ解剖生理の知識というものが、「本からでは伝わりにくい」タイプのものだと(少なくとも現場の人びとには)思われているからではなかろうか。
ここにはいろいろな理由があるだろう。学生時代の座学にうんざりした人にとって、頭から順番に読むタイプの長文にそもそも抵抗があるとか、その場その場で必要な知識をスマホで調べているうちになんとなく現場で必要な分の知識は補えてしまうとか。
今日の文章の冒頭に、
「身振りと声でしか伝わらないことがあり、絵と注釈でしか伝えられないことがあり、文章でしか伝えられないことがある。さらに、短時間で強い印象を与えることでしか伝わらないことがあり、長時間かけて何度も体験し直すことではじめて伝わることもある。」
と書いた。いかにも、「だからいろいろな伝え方を模索すべきだ。」と続けたくなるタイプの文章だ。
しかし、世の中にある大半のものは、すでに、適材適所の「伝わりやすさ」に応じてわりと適切に配置されている。解剖生理学の本が少ないのは、「それが本だと伝わりにくいから」という側面が確実にあるだろう。たぶん、動画であるとか、現場の経験であるとか、そういったもののほうが若干伝わりやすく、文章が苦手とする分野だから駆逐されてしまう、「ある種の選択圧を受けている」。
それなのに解剖生理学のはなしを文章で書こうとしているぼくは、何に抵抗しようとしているのか?
いや、抵抗というか、これは単に欲望で動いているのではないだろうか。
「この話を文章で書けるほどに俺はきちんと理解したぞ!」と、誰に対しても、あるいは過去の自分に対しても、見せつけたいのではないか。
えぐい結論になってしまった。