2022年9月28日水曜日

病理の話(700) 思ってた病気と違うんだけど

患者の体の中からとってきた臓器や小さなカケラを、目でじっくり見て、さらに顕微鏡を使ってめちゃくちゃ見て、病理診断報告書を書く。

この、「顕微鏡を使って」というのが、われわれの仕事の特徴である。病院にはさまざまな職業人がいるけれど、連日顕微鏡を見ている部門というのは病理検査室以外にはほとんどない(まったくない、とは言わないところがいかにもサイエンスである)。

顕微鏡を見るというのは、かなりオリジナリティがある仕事だ。

細胞の見方には、150年の病理学の歴史でつちかわれてきたテクニックがある。核や細胞質の性状、細胞の配列、複数の細胞がどのように混ざっているか、免疫組織化学という技法で病気に特有のタンパク質をいかに検出するかなど、いずれも「顕微鏡でしかわからない」。

そのため、ときに、困った「ズレ」が生じる。

どことどこがズレるかというと?

「顕微鏡以外の手段でさんざん患者のことを見てきた主治医と、顕微鏡という特殊な手段で別の角度から患者の病気を解き明かす病理医」との間でズレが起こるのだ。




「えっ、○○病!? ほんとうですか!」


主治医がこのようにびっくり仰天する、というシーン、あまり起こってはほしくないものだが、実際、年に一、二度くらい起こる。

一年で万を超える病理診断・細胞診断をしていく中で、その大半は「主治医が思ったとおりの結果」になるが、たまに、病理診断と「臨床診断(主治医の診断)」が異なることがある。

いちばんわかりやすい(しかしあまり起こって欲しくない)のは、たとえば、「主治医はがんだと思って手術をしたのだけれど、とってみたらがんじゃなかった」というパターンである。病気の種類(診断名)が違うということ。

ほかにも、「主治医はがんが○センチくらい広がっていると思って手術をしたけれど、とってみたら○ミリしかなかった」みたいなことも起こる。病気の進展度合いが違うということ。



主治医は、患者に話を聞き、血液検査を行い、超音波、CT、MRI、内視鏡など、さまざまなツールで病気をあきらかにしようと努力するが、それらはあくまで「体の外から、中で起こっていることを推測する」ものである。決して病気をじっさいに取り出してきて自分で眺められるわけではない。

これに対し病理診断は、「実際にモノを体の中からとってきて、直接みる」のであるから、解像度が段違いである。そりゃあ、手術の前の「主治医の予測」が病理診断とはずれることはあるだろう。医学がいくら進歩したとしても、である。

最近の主治医は「そういうズレが起こること」をあらかじめわかっている。だから、手術の前に「これはぜったいこういう病気ですよ!」なんてことは言わない。あくまで体外からの推論なのだから、さまざまな理由で外れるかもしれないし、仮に予想がはずれたとしても患者に不利益があまり及ばないように対策を考えておくことのほうが大事だ。そして、そういう「両面作戦」を展開しながらも、心の中では、「まあがんの確率が高いだろうな」くらいのことを考えている。

それが病理診断とズレるというのは、もし万全の手をうっており、患者の不利益を利益が上回る状況をきちんと作っていたとしても、やはり、主治医にとっては、ショックなのである。





で、今日言いたいのはこの先の話だ。

病理診断報告書で、「A病」という診断をくだしたあとに、主治医がびっくりして電話をかけてきたとする。

「あ、あの、あの患者さん! A病なんですか!! B病だと思ったんですけれども……」

主治医の予測と病理診断が違っていた場合に、病理医がなんと答えるべきか。ちょっと考えてみてほしい。







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( 'ㅅ') Thinking time






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( 'ㅅ') おわり







【ダメな例】

病理医「はい、A病でしたよ。B病ではないですね。ほら、顕微鏡でA病の証拠が揃っていますからね。これを見てください。細胞の配列は○○ですね。しかも免疫染色は□□が陽性でした。教科書にも書いてあります。間違いなくA病です。」

↑これがダメな例だ。しかし、けっこう、やっている病理医がいる。

今の何がだめだかおわかりだろうか? ヒントは今日のブログの冒頭にさかのぼる(ウサギが無駄にスペースを稼いでいるのでがんばって戻ってみてください)。


”顕微鏡というのは、オリジナリティあふれる仕事であり、病院の中で顕微鏡を日常的に使っている人というのは病理医以外にほとんどいない” という意味のことを、冒頭で書いた。


となるとだ。

「顕微鏡でA病に見えたからA病ですよ」という言葉は、主治医からすると、「(なにやらわからないツールを使える人だけがわかる理屈で)A病ですよ(と説得されている)」に聞こえる。

それでは、やさしくないではないか。

主治医が、なぜ、A病でないものをA病だと考えて手術に入ったのかが説明できないといけない。「顕微鏡で見たらそうだったからだ」では納得が得られない。「病理医しかわからない理屈でA病と診断しました」では主治医も患者も詳しいことが全くわからないのである。

これではまるでAIに判断されるのといっしょだ。「よーわからんけどAIがそう言ってたからそうなんやで」。そこに親切さのカケラもない。



【のぞましい例】

病理医「はい、A病でしたよ。じつは、A病がこのような細胞形態をとるときには、主治医の先生が行ったこの画像検査で、B病と似てくる可能性があります。なぜなら、A病とB病の細胞配列が、このように(顕微鏡画像を見せて)似ているからです。現代の画像検査の性質上、これらを区別するには解像度が足りないのです。」


↑これくらいは説明したい。「顕微鏡で見ている病理医が正しい、お前らは間違っている」ではなくて、主治医が使った「さまざまなツール」でなぜA病とB病の区別がつかなかったのかを、病理医なりに考えて共有するということだ。



これをやると、主治医は、自分の診断が病理診断とズレるたびに勉強することができるし、さらに言えば、「全国のあちこちで今日も起こっているであろうズレ」を防止するための方策を開発することも可能になる。ひとりの患者を、主治医と病理医、それぞれ違う立場から、違うツールを用いて調べていく過程で生じたズレには必ず理由があり、医学は終わりなき進化の過程でそのズレを少しずつ乗り越えられるはずなのだ。病理医だけが「俺顕微鏡見てるから最強~」などとドヤっている場合ではない。