2023年2月28日火曜日

じつと指を見る

「文章を入力するときに、ガチャガチャターンと大きな音を立てるのは下品だよなと思っているので、なるべくキーボードを優しく叩くようにしています」

ぼくがそう言うと、

「優しく叩く、ってそこそこ矛盾してるよね」

と返された。そうか。そうかもしれない。思えば、英語だとキータッチ、すなわち「触る」である。ブラインドタッチという言葉もある。日本語だとずいぶん強めの言葉を用いるんだなあ。


こうして文章を打ちながら、あらためて自分の手元を見てみる。まじまじ眺めながら文字を打っていくと不思議な気分になる。ブラインドで入力することこそが至高と思ってずっとやってきたけど、むしろモニタを見ずに手元だけ見ながら入力していくほうが身体のふしぎさをダイレクトに感じることができておもしろいかもしれない。あえて強く「叩いて」みたり、なるべく音を出さないようにロロロロッとなで回してみたりする。左手はわりとどっしりしていて、右手はかなり左右に忙しく動く。その都度、手の甲の筋や指の節の部分などがぴくりぴくりと反応し、あるいは入力に使っていない指が次の入力に備えてぷるっと震えたり緊張したり、これまであまり気づいていなかった指や手の予備動作、もしくは重心の移動みたいなものまでもだんだん見えてくるようになる。

じっくり見ていると、どうやらキーボード入力のときにやっていることは「叩く」でも「触る」でもないようだ。打鍵という言葉があるが、「打つ」とも違う。押下(おうか)するというほど指を押し込んで下げているわけでもない。内科医が次々と聴診器を違う所に当てていくような、水平移動のイメージのほうがむしろ近い気がする。這うような、うろうろするような、ゴミ拾い、芝刈り、雪かき、麻薬探知犬。樹皮の表面をペタペタとあちこち触りながら維管束を流れる水分量を感じ取る樹木のお医者さん。ああ、点字ブロック!

自分の手を見ながら他人事のように考える。よく動くなあこの指。もう25年以上もキーボードで入力しているから、歩いたり食べたりするのと同じくらい無意識に体が動く。それをあらためて「見ようと思って見る」。


書き留める、という言葉があって、たしかにボールペンや万年筆で何かを書いているときには「書いて留める」というニュアンスがしっくりくるのだけれど、キーボード入力では書いて留めている感覚から少し離れてくる。「探り探り」という言葉がポンと浮かぶ。そうだな、PCで文章を打つ作業は探り探りだ。指を這わせて脳のシワをなぞっていく。カーテンのひだの中、ドーナツの穴の奥、Oddi括約筋の締め付ける先。なでて探って積もらせていく。叩かず、打たず。

2023年2月27日月曜日

病理の話(750) いつもと違うとわかっただけでラッキーである

顕微鏡で見た細胞の姿が、あまり記憶にない。

いつも診断している病気とどこか違う。

ああ、と小さく声を出して、いったん顕微鏡から目を離して少し考える。

これはわかるまで時間がかかりそうだなあ……と思う。きちんと診断を付けることができるだろうかと、少し不安にもなる。いかにも難しい細胞像だ。



しかし、じつは、この時点で少しだけ安心している自分もいる。このニュアンスは非常に細かいががんばってついてきて欲しい。

なぜ安心しているのか。それは、「いつもの病気じゃない」ということがわかっているからだ。

やばい、難しい、しっかり調べなきゃ! と気合いを入れている時点でかなりラッキーである。



じつは、病理医の誤診で最悪のパターンは、「難しくて診断を間違えた」ではなくて、「いつものアレだと思いこんでいたが、じつはアレじゃなかった」というものだ。

この場合、病理医は、診断の時点で「間違うのが怖いなあとすら思っていない」。いやな症例だとも難しい症例だとも気づかないまま、いつものやつだと判断して堂々と誤診しているのである。自分がやらかしたことに気づいていない。

あとになって、患者の経過が予想していたものと違うとか、一般によく効くはずの治療がぜんぜん効かないなどの指摘をうけて、あわてて見直してはじめて気づく。

マジで怖い。

「診断が難しい」ならば、報告書にそう書いておけば主治医も患者も(困惑しながらも)納得してくれる。しかし、こちらがいつも通りに出した診断がときどき間違っているとなると……ウウ、今こうして書いているだけでも背筋がぞっとする。


「ああ、いつものやつだな」と誤認することこそを病理医は怖れる。

だから複数の病理医の目でダブルチェックをかけたり、過去の誤診例などを飽きずに勉強して(「しくじり先生」である)、日々、誤診が減るように努力をするのだ。



一般に「細胞の顔付き」などと呼称される、細胞像。

・核のサイズ

・核の形状

・細胞質のかたち

・細胞質の色合い

・細胞内含有物

・細胞膜の様子

これらを見ることで、細胞の持つ性質や由来などを見抜くのが病理診断である。


さらに言えば、「顔付き」だけではなく、「ふるまい」も見る。顕微鏡で集められる情報はとても多い。こちらの細胞は徒党を組んでカタマリを作っているとか、あちらの細胞は一列に並んでいるとか、その細胞はあたかも試験管のような構造を作っているとか、そことそこの細胞は結合性が弱くてあまりくっつこうとしない、など……。

本来、人体の中では細胞が秩序を持って適材適所に、さまざまな構造を形成して仕事に励んでいる。しかし病気になると、「ふるまい」がおかしくなる。増えてはいけないところで増えたり、本来入ってはいけないところに入り込んだりするから異常とわかる。


「顔付き」や「ふるまい」を見ながら、この病気は「胃の印環細胞癌」だとか、こちらの病気は「大腸癌の転移」だとかいったように診断をしていく。しかしこのとき、病気の細胞ばかりをクローズアップしていると間違える。Aという病気によく似たBという病気。Cという病気によく似たDという「病気ですらない変化」。

印環細胞癌は炎症によって破壊された幽門腺と似るし、脂肪を貪食したマクロファージにもどことなく似ている。大腸癌の転移だと思ったがどうも調べてみると大腸癌なんてこの人にはそもそもないらしい、まてよ、冷静に、慎重に、あらゆる情報を総合して考え直すとこれは子宮内膜症だ……。


アレとコレが似ているから気を付けなきゃ、という注意喚起には終わりがない。Myxoid fibrosarcomaとmyxoid liposarcomaが似ているのはまだわかるが、浸潤性膵管癌の初期病変かと思いきやintraductal tubulopapillary neoplasm, high-gradeの初期病変でした、みたいなのになると9割の病理医が「何を言っているんだ?」と思うだろうし、肝細胞癌と同じ顔付きをしているがよくみるとそこかしこに肝細胞腺腫の雰囲気が残っているってことあるよねなんていうと9割5分の病理医がヤメテクレッと叫ぶだろう。


だから……病理医はずっとしんどい。勉強し続けないと怖くてしょうがないのである。

顕微鏡を見て、「あっこれは難しい病気だ、見たことのない病気だ」と思うとき、どこか安心している自分がいるというのも、今となってはみなさんなんとなくおわかりなのではないか。「難しい」とわかっていれば対処のしようがある。遠隔コンサルテーションでもなんでも使って有識者の意見を聞きながら、主治医ともじっくり相談して話を進めていけばいい。もちろんこれだって簡単ではない、ストレスでもある、大変だ、しかし! いつものアレだという誤診ほど怖いものはない!

2023年2月24日金曜日

管理職の言い訳

ポイント溜めるより先にやることがある。月の会費をまじめに払い続けているにもかかわらず、12月はたった一度しかジムに行かなかった。1月に至ってはゼロ回である。これほど説得力のある無駄遣いもあるまい。人前では、雪かきで汗だくになっているから運動しなくていい、とうそぶいているがもちろん言い訳だ。体重も血圧も雪かきだけではまるで落ちない。週に一度でもいいから運動を習慣にすべきである。走ること、筋トレすることから逃げてはいけない。これからのぼくはどんどん腰も頸も足腰も肩も弱っていく、それはもう明日の天気よりもはっきりした確定的な未来である。今後少しでも長く座り仕事を続けていくためには今から地道なメンテナンスをするに越したことはない。理論も統計も完璧に理解している。しかし休日は本を読みながら寝てしまうし、平日に時間があると大須賀とTwitter spacesなどをやってしまう。中動態どころか能動態でさぼっている。責任の所在ははっきりしている。

ぼくは昔からこうだ。アマゾンプライムビデオも月に1本も見ていないからプライム会員の会費は無駄になっている。最近とりわけ忙しくてたまたま今の時期だけズボラ……というわけでもない。振り返ってみれば20年前にも、更新していないホームページのサーバ料金を年単位で払い続けていたり、車を停めていない駐車場の月極料金を払っていたりした。たぶんそういう性格、というか欠失がある。




出勤前に雪かきを終えたあとすぐに出かけたかったのだがさすがに疲れたので、天気予報でも見つつ少し座ろうと思ってテレビを付けたら、「管理職になりたくない若者」のインタビュー映像が残っていた。仕事が増えて定時に帰れないのはイヤだから管理職になりたくないです、と街頭の若者が言う。家族や自分のために使う時間を割いてまで責任と給料を増やしたいとは思わないです、とデート中の若者が言う。一方、30代くらいの人は家庭を支えるために給料を増やしたいから管理職になれと言われたらなると思う、みたいなことをしぶしぶ言う。みんな自分のこと、そして自分の拡張現実であるところの家族のことを言う。ぼくが今管理職をやっているモチベーションの多くは、どちらかというと自分のためというよりも、「ぼくがこの事務仕事を代わりに片付けておくから若い人たちは存分に自分のやりたい勉強をするといい」という使命感にあるのだが、インタビューされたとしてそのように答えても編集的に選んでもらえないだろうなという気がした。

ふりかえってみれば、20代のぼくも30代のぼくも、自分とその延長のことしか考えていなかったけれど、それを許してくれた上司や職場や社会に恩があるなとだんだんわかってきて、こんどは順番的に自分が返さなければいけないと思っている。管理職というのはなりたくてなるものではない。なりたくない人の代わりになるものなのだ。それがいいところなのだ。そして、このようないわゆる「美談」を持ち出してまで、「自分のために時間を使うことがへたくそである」という論を、丁寧に、詰め将棋を解くかのように進めて、結局はジムをさぼっていることの口実にする。事務仕事が忙しいからジム仕事に行けない。オチまで完備。そういうことである。そういうところである。

2023年2月22日水曜日

病理の話(749) 人体の基本は出し入れである

「理系(とされるもの)の諸問題」の多くは、的確な理路があれば語り方が1通りに決まるというわけじゃなくて、レイヤーごとに答え方が変わる。たったひとつの真実を見抜くというコナン君は一見理系っぽいが、じつは理系あるあるの疑問に答えるのはけっこうヘタなのではないかと思う。

一例をあげる。「どうして夕焼けは赤いの?」。これには光の散乱を説明することによる「物理学的な答え方」ができる。ググるとレイリー散乱の話とかが必ず出てくるしそこそこ有名だろう。しかし、この回答はあくまで、「物理学で説明しやすい範囲」でしか答えていない。この質問が持つ豊潤なニュアンスの一部を拾い切れていないのだ。たとえば、「なぜ人間は夕焼けを赤やオレンジという概念で理解するの? 青や緑ではだめなの?」と書き換えるとわかりやすいだろうか。火や血、あるいは肌色などと、夕焼けが物理学的には似た波長であるという説明自体はいい、それはわかった。しかし、それらを我々が「赤」と認識している理由に必然性はあるのだろうか、という疑問に物理だけで答えるのは難しい。ストIIの2Pカラーのようにぜんぶ青になっている世界線だってあり得たかもしれないわけで、ぼくらはもしかすると青を暖色系と呼んでいたかもしれない。ぼくらがいっせいに「赤」という概念で把握できているというのはなんなのか。あるいは、ぼくの言う赤とあなたが言う赤はじつは違うのか。……こういった脳科学的・認知科学的な話については、物理学的説明だけではうまく回答できない。「どうして夕焼けを見ると人間は感動するの?」になるとさらに難しい。物理学だけでも進化生物学だけでも、文化人類学的アプローチだけでもだめである。複合しないといけない。おもしろくなってきやがった。


これ系の話でぼくが立場的に一番耳にするのはなにかな……と考えてみた。「生命って結局なんなの?」というざっくりとした質問がなにげに一番多い気がする。一見雑だが十分に奥深い。大学生に合コンで適当に語ってもらってもいっこうにかまわないチャラさを持つ一方で、とうのたった病理医が40を越えてなおネチネチ考えるに足る懐の広さもある。

「生命って結局なんなの?」という質問にも学問のジャンルごとに答えがある。ひとまず解剖生理学的な解釈を試みると、「生命とは結局、命続く限りなんらかの出し入れを行っているもの」となる。生命には必ず膜というか境界があって、それを境に内外がしっかりわかれていて、かつ、栄養を取り込んで不要なものを出すという仕組みが絶対にあって、ここが生理学的には本質だ。もちろん代謝の話を化学(バケガク)的には違った角度から解説することもできるし、種の保存こそが生命の本質という遺伝学的(?)な解説も可能なのだがいったん落ち着いて解剖生理学の話につきあってほしい。とにかく出し入れしているのである。ついでにいうと栄養や水分を取り込みつつ外敵ははね返すという選択制も見逃せない。取り入れる穴、出す穴が肉眼的にわかるタイプの生物がいる一方で、生化学的な穴……チャネルやトランスポーターと呼ばれるもので細胞膜などに(ときに開閉式の)穴を開けて内外で物質をやりとりするタイプの極小生命・細胞もあるからサイズ的にもバリエーションがある。たとえば哺乳類の場合、この出し入れを体表でやろうとせず、口から肛門につながる内的な通路を作ってそこを複雑化させて、出し入れのもろさを体内に格納している。けどまあやってることは結局出し入れだ。

さあ、このように解剖生理学的な答えをしたとして、「生命とは?」という質問すべてに答えたことになるだろうか? ならないだろう。生命ってそれ以外にも切り口・語り口あるよね、と誰もが反論したくなるに決まっている。メシとウンコとセックスの話だけで「生命とは?」を語るのはしんどい。ああ、だから、世界各地にさまざまな信仰や文化が存在するのか……とまで言うとちょっと極論しすぎかもしれないが。解剖生理学のレイヤーだけで語られても困る、しかし、解剖生理学のレイヤーだって知っておいて損はない。



夕焼けにしても生命にしても言えることなのだが、これらには複数の「正解っぽい仮説」がある。誰かが正解を言って終わりにならない。生命とは! とか、動物とは! みたいな話を、年に一度くらい、居酒屋でガンガン盛り上がりながらしゃべってみたいものである。コロナ終わんねぇかな。

2023年2月21日火曜日

舵をときおり一度切る

そこまで強烈に傾向があるってわけでもないんだけど、このブログ、記事タイトルが体言止めのことが多いなと思った。最近ちらっと見て思っただけだけど。もう少し文章っぽいタイトルも付けているように思っていたのだがそうでもなかった。自分で勝手に思い描いていた印象と実際の姿が異なるというのは、ほんとうによくあることである。


……という書き出しで、ぼくはおそらく今日、「セルフイメージと実際のずれ」みたいなことを書くつもりだった。しかし、その文章の結論、すなわちブログ記事の着地点が「どうやってずれを埋めていくか」、つまり差を縮めていくかになるだろうなと気づいたところで、それはなんだかつまらんなあと感じて指が止まった。


この歳になって、「ずれ続けながら走り続けているもの」がおもしろいと感じるようになっている。補正するばかりが目標だときつい。理想に向かって微調整をし続ける人生はしんどい。「正解」がわからないままなんとなく感覚的に、右左にちょんちょんとハンドルを切る。マリオカートのゴーストみたいな「正解の走行パターン」に自分をフィックスしていくのではなく、何からどこまでずらそうとしているのかもわからないままにあれよあれよとずれていく方がリアルな過ごし方だと思える。

理想とか真実とか本来の場所みたいなものに調整しようと試みるのは人の常だ。なんらかの目標を定めて「こうあろう」と「目指す」のは本能に近い。けれど、結局は、もともと行こうと思っていたルートからジワジワ外れていく。目で指していたものとは違うものが前に現れる。それが趣深いし興味がある。調整とか修正と言う言葉を使っている時点でもう違うのかもしれない。微弱に舵を取ってはいる。ただしレールに合わせるのではなく、あるいは道に沿うのでもなく、太陽や星を見ながらざっくりと波間を航行していくような……と書くと航海士に怒られるだろうか。「私たちだってちゃんと調整してるんだ」とばかりに。でもワインディングロードの例えよりもヴォヤージュの例えのほうがやっぱりしっくりくる。腕がないと難破するというが噴火湾の中をするする対岸に渡っていく毎日でもよいではないか。



ブログ記事に体言止めが多いことをどう修正していこうか……と思ったがそれももう気にするのはやめにする。書き終えた文章をざっと見て気になった部分をピックアップしてタイトルに据える日はどうしたってフレーズの抜き書きになるからそれはもちろん体言止めっぽくなるだろう。手癖、脳癖がそうしたいというならばそうさせておけばいい。気づいたころにふと俯瞰して「なんか違うな」と思った日にぼくはおそらく無意識に舵を少しだけ切るだろう。その程度でよい。右の道か左の道かと選択するほどのことでもない、舵をときおり一、二度ほど切るような船旅の話。

2023年2月20日月曜日

病理の話(748) 時間外の病理

珍しい病気の相談を受けている。ほかの病理医が診断に苦慮して、ぼくのところに標本を持ってきた。……と、こうやって書くと、病理医が小脇にプレパラートボックスを抱えてえっちらおっちらぼくのところにやってきたようにも思えるが、正確ではない。

バーチャルスライドと言って、PC上のデータで転送してもらって、それをPCで見て考えるのである。オンラインコンサルテーション、などと呼ぶ。

顕微鏡ではなくPCの画面で顕微鏡像を検討して議論をするスタイル。5年前には考えられなかったやり方が、あっという間に当たり前になってしまった。


只今の時間は19時をすぎたところ。

日中鳴り止まなかった電話の相談も今はほとんどかかってこない。安心してじっくりと、「ほかの病理医が難しいと言ったいわくつきの症例」について考えをめぐらせる。

さすがに難しい。いろいろと教科書を引く。文献を探す。オンラインの勉強会のログをたどって、過去に似たような症例が提示されていなかったかどうかを探す。


すべてボランティアだ。

病理診断のコンサルトに支払いは発生しない。

病理医同士は、基本的に、相談するにあたってお金のやりとりをしない。




なんでそんな、仕事でもないことをやるのか、時間外に……ということを、たまに今どきの若い医者から尋ねられることがある。

それは義務ですか? 働き方としては歪んでいるのでは?

こう尋ねられたら、正直に答える。

義務ではないし、働いているとも言えない。これは自分にとっての研鑽であり、職務を越えた社会貢献でもあって、やりたい人だけがやればいい。

ただし、そこで説明を終えてしまうとフェアではないと思うので、続きも言う。

「そういう機会を捕まえてでも貪欲に勉強をしないと、病理医としての能力が足りなくなる」。

周りから望まれる仕事を多少なりともやろうと思ったら、時間外の勉強をせずにはいられない。


「業務時間外で、無収入で、ボランティアで、病理のことを考える」。いかにもキツそうに聞こえる。したくない人はしなくていい。しかし、それではもう、ぜんぜん足りない。足りないまま給料をもらい続けることもできる。しかしぼくは「足りない病理医だな」と言われたらこの仕事をやっている意味がないように思う。

実際、「勤務時間内だけで勉強を終わらせている病理医」はいるのだけれど、そういう人の中にぼくがすごいなと思うプレゼンをする人は一人もいない。本当に一人たりとも知らない。脳の筋力がないなーと感じる。


病理医は、切ったり縫ったり投薬したりといったあらゆる「手技、処置、処方」をやらない、脳だけで働く仕事である。一方で、当たり前の事だが、病理医以外の臨床医ももちろん脳は使いまくっている。そういう、「日頃から脳を使っている臨床医」がいざというときに頼るのが病理医だ。「手技や処置をしなくていい分、脳はすごいんだろ?」と期待されて頼られるのが病理医である。その期待に答えられる脳でいようと思ったら、いわゆる「9時5時」内に勉強を終わらせることは普通に無理だ。


プロ野球選手はトレーニングを短い時間しかしない、なんていう話と比べられて、「時間外に勉強しなきゃいけない医師の働き方は今後改善すべきだ」みたいなことを言う医学生もまれにいる。しかし解像度が足りないと思う。

たしかにプロ野球選手は、筋肉に負荷をかける時間を短くコンパクトにまとめている傾向がある。しかし、運動を離れている時間も、食事や睡眠、リラックス方法など、すべて「野球にいい影響をもたらすように」調整しているだろう。プロ野球選手を引き合いに出すなら、そこまで真似しないとスジが通らない。

「9時5時」の間には職務として脳を使い、それを過ぎても「仕事を見越して気を抜きすぎず」、アフタータイムにはアフタータイムなりの脳の使い方をする。

それが病理医として臨床医の中で仕事をしようと思った場合の作法ではないかと、ぼくは考える。



ただし、業務時間外にお金ももらわずに、人の為に診断を考えて勉強もする、それで十分よくやっているのだから、昼間と比べて自らを多少甘やかせることは必要ではないかと思う。音楽を聴きながらPCに向き合うとか。たまに病理とまるで関係ない本を読んでみるとか。疲れたなと思ったらどうせ脳もうまく働かないのだから、さっさとあきらめて家に帰るとか。バリエーションをもたせることが続ける秘訣だ。続けないと役に立てない。役に立たないなら病理医でいる意味がない。

2023年2月17日金曜日

伐採の風景

東京の地下鉄に揺られながら生きづらさのことを考えていた。改札を通り抜けて壁に掲示されている地図を見ていると、改札の中で女の人がぴょんと跳ねたのが目の端に映った。とっさにぼくは、変な女がいる、近寄らないでおこう、改札を越えてからでよかった、と思ったが、なにやら女は駅員を呼んでいるらしい。すぐに出てきた駅員は女とふたことみこと何やら言葉を交わして階段の方へダッシュしていった。「具合悪そうな人がいるんです」という声が聞こえた気もして、ぼくは少しその場を動けないでいた。病人かもしれないが酔っ払いかもしれないし、ケンカかもしれないと思った。「でも、ならばぼくにできることはないだろう」と自分の声が脳内に響いた。

「ならば」とはなんだろうか、自分でもよくわからない。

改札の中にとって返して「何か手助けしましょうか」と声をかけることもできたはずだが体は全く動かなかった。駅のホームでのトラブルならば、成人男性が数人いたほうが役に立つはずである。しかしこのときのぼくは「もう改札を出てしまったからなあ」というエクスキューズで、目の前に起こっている事故・事件の場から急速に逃げだそうとしていた。



前の晩、羽田から品川に向かったときのこと。折り返し運転の京急に、ぼくより若いサラリーマンがノーマスクで前後不覚となり座席で寝こけていた。どこから乗ってきたのかわからないがおそらく目的地は羽田ではなかったのだろう。品川と羽田の間のどこかに自宅があるのかなと思ったし、もし行く先が羽田だとしても、こいつの乗るはずだった飛行機はもうとっくに飛び立っているはずの時間であった。そもそも男の手持ちの荷物はリュックひとつでおよそどこかに行く雰囲気はなかった。そのリュックは、穴守稲荷あたりの振動で男の腹を滑り落ち、盛大に床に仰向けになって、チャックからスマホが飛び出した。あまり混んでいない車内ではもちろん誰も拾わないし声をかけないし男を起こしもしなかった。どうせ酔っ払いだろうしトラブルに巻き込まれるのはいやだ。いびきもかかないしゲロも吐いていないし、このまま放置しておけば終電が終わった後に駅員にどこかの駅で起こされるだろう。それで十分ではないかとぼくも思ったしみんなも思っていたと思う。次の瞬間にでも男の目がかっと開いてぼくの目とあったらいやだから、見守りもせずに意識をその空間分だけ切り取る、もしくは刈り取るようにした。男はだらしなく座席で寝続けており、駅で電車が留まるたびに隣に平気で女性が座って、男のことを気にもせずにスマホを見始める。札幌ならきっとこのような酔っ払いの周りにはATフィールドのように人のいない空間ができるはずなのだがさすが東京は一般人のくぐってきた場数が違うと思った。ぼくももはや男のことが気にならなくなっていた。



女と駅員が改札階からいなくなったあと、壁の地図をスマホの地図と見比べながら、別にこうしてスマホでもう地図を出しているのだから駅の壁を見ている必要はないというのにどうにも動かない足を、ホームの中にいくでも地上に出るでもない足を、不思議に思っていた。行き先も完全にわかってこれ以上無駄に地図を見ていてもしょうがないのでぼくはようやく階段を登る。未練というには残してきた印象が黒く臭かった。階段を登るにつれてぼくは早足となった。まだ待ち合わせの時間にはだいぶ早く、近くで少し時間を潰していこうと思い、駅のすぐ横にあった喫茶店でラテを頼んで席に着いて遅めの昼飯とした。20分か、30分か、店を出ると、さっき出てきた地下鉄の階段の前に、消防車と救急車が止まっていて、ぼくは取り返しのつかない罪を犯していたことに気づいた。

ぼくがあのとき改札を逆に戻ってAEDでもタンカでもなんでも運んでいたら状況は変わっただろうか。いや、消防車と救急車が来る状況は変わらなかっただろう。他人が外から見ている状況としては何も変わらなかったはずだ。そして残酷なようだがおそらく倒れていた人の予後にもほとんど影響は与えられなかったのではないかと思う。しかし、あの場にいた、駅員を呼んだ女、駆けていった駅員、そしてホームで倒れていた、素性も年齢も性別も家族構成も好きな食べ物もこの先やりたいこともひとつとして思い浮かばないどこかの誰か、そういった間違いなく当事者であった人びとから見た主観的な状況は、おそらくぼくが介入することで何か変わっただろう。ぼくは状況を変えなかった。命のあるなし、結果の良し悪し、そういうものまで動かせたとは全く思わないが、ただ、「あああなたも来てくれた人か」と、「どこのどなたかわからないが駆けつけてくれたのか」と、そこにいた当事者たちにとって微弱に状況を変化させることはできたはずなのにぼくは直感的にいろいろと理由を付けてその場にいることを拒否した。ぼくはその変化を起こすだけのきっかけと手足と脳を持っており、一般的な医師ほどの救命能力は全く持たないにしても少なくとも善意の一般人として通りすがりの状況チェンジャーになる資格はあった。でもぼくはついさっき、その立場から逃げることで、人の命よりもなお少し複雑な何かをおそらく見殺しにしたのであった。店を出たところで呆然と立ちすくんでいるぼくの横を、風のように通り過ぎて喫茶店に入っていくスマホを握りしめた若い男と、一瞬目があったような気もしたが彼はおそらく昨日のぼくと同じように意識の中で風景を刈り取っており、ぼくはあの日からずっと跳ねた女と駅員の情景を夢に見続けている。