2017年2月28日火曜日

病理の話(53) 病理医は医者ではなく学者ではないのか

病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したりといったことを、日がな一日やっている。

つまりは、患者さんのおなかを押したり膝を叩いたりといった「診察」をまったくやらないし、血の巡りが悪いからあの薬を入れようとか息が苦しそうだからこの機械でサポートしようといった「治療」をまったくやらないし、これから一緒に病気と闘っていきましょうとか不安なことがあればいつでも言ってくださいといった「患者さんへの説明」をまったくやらないし、傷跡が落ち着いたからそろそろ退院してもらおうとか痛みが強そうだから痛み止めを増やそうといった「病棟の維持管理」をまったくやらないし、この先血圧が高いといろいろ問題になるだろうとかピロリ菌がいない方がこの人の胃にとっては将来いいことの方が多いだろうといった「患者さんの健康維持管理」をまったくやらないし、手術後すぐに歩き始めた方がいいだろうとか骨もくっついたからそろそろ運動して関節を動かそうといった「リハビリ」をまったくやらないし、低空飛行で死に向かう患者さんの様子をみながら食べたいものをどこまで食べさせようとか日常生活をどのように送ってもらおうといった「終末期ケア」をまったくやらない。

薬のことをあまり知らない。点滴のことがわからない。注射をしない。CTの予約ができない。傷が縫えなくて気管挿管もできなくて眼底も見られなくて心電図もたいして読めない。


それなのに医者と同じ給料をもらう。これが許されるのか、という話だ。



ずっと脳だけを使う。多少の事務仕事をしながら。ひたすら座学に励み、顕微鏡を見て、パソコンを使い、医療者とだけ会話をする。

そういう人がいないと医療は回っていかないから。

先生のおかげで診療が深まっているのだから。

大学とも連携してるんでしょう? 研究にも詳しいからすごいね。



そうなのだろうか。



ぼくは、世の中の人々が、病理医を全く知らなかった頃に比べて、少しだけ知名度が上がってきた今の方が、厳しい目線にさらされるのだろうなあという「危機感」を持っている。



ぼくらは本当に医者を名乗ってよいのか。





病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したり、病気がどういう背景に発生するのか、どういう像が現れたら病気と言えるのかを、教科書や論文、先人の経験や個人の勉強成果とすり合わせながら、調べて、記述して、説明して、臨床医や多くの医療者たちと相談をし、あるいは納得してもらうための言葉を探すために学会や研究会に出て、妥当か妥当でないかを言うために統計の勉強をして、遺伝学の基本に立ち返ったり分子生物学の深見にもぐったり発生学の古書をひもといたり、逆に聞き手であり商売相手でもある臨床医たちのスタイルを学ぶために臨床診断学を学び、画像診断学を探り、臨床検査学を復習しながら、病理診断を書き、症例報告をし、臨床研究の手伝いをしながら基礎研究の話に花を咲かせ……といったことを、日がな一日やっている。




これは、もしかすると、「学者さん」ではないのか。

学者を名乗るのもアレだけど、いちおう、孫悟飯はあこがれていたっけな。

2017年2月27日月曜日

アイアイ おさるさんだよ

「たとえば、インフルエンザの診療があるでしょう。子供が熱を出すわけです。昔であれば、外来にかかって、そこから2時間とか待っていなければいけなかった」

ーーそうですねえ。そうでした。

「でも、今は親御さんはとにかくそんな風邪まみれの外来で、待つのなんてイヤなんですよね。だから、病院側も、いろいろ知恵をしぼる」

ーー知恵を。病院側が、ですか?

「ええ、病院側が、です。たとえばスマホで予約をできるようにする。何時間後に来てくれと表示を出す」

ーーああ、そういう。

「そうすれば、待たなくて済むわけです。で、いざ病院についてから、医者がやることが、まあおなかをそんなに丁寧に触るわけでもなくてね、時期的にインフルエンザが流行っていて、外来も大混雑の中で、とりあえずちょろっとお話を聞いて、それから鼻の奥に棒をつっこむわけですよ」

ーー迅速検査ですね。

「実際、お医者さんなんてのは、患者さんが入ってきたときの雰囲気とか、話してみたときの感じとか、バイタルサインとか、首を触ってリンパが張れているかどうかとか、肺音とか、いろいろ瞬間的に、見ていらっしゃる。

でも、患者とかその親からすると、そこまで見てもらってるようには見えないわけです。まあ達人技なんでしょうな。

つまり、患者さんの側としてはね、

『インフルで病院かかったらインフルの検査されて、インフルの薬出してくれた』

みたいな捉え方をしてる、ってことです。すごくシンプルだ」

ーー……。

「そしたらね」

ーーはい。

「今後、たとえばAI診断がめちゃくちゃ進んだとして、家庭でもスマホでだいたいの診断がつけられる時代ってのは、来ると思うんですよ。インフルエンザの可能性が89%、みたいに、情報が瞬時に表示される」

ーーうーん、そうですね。89%じゃ困るんだけどなあ。

「けど、それ、患者側は、どう思いますかね」

ーーどういうことですか?

「9割がたインフルだって教えてくれる。そして、そのころは、あるいはインフルエンザの特効薬なんてのは、薬局で薬剤師さんが出してくれるかもしれないんです」

ーー……。病院がいらなくなる、と……? でも、万が一の鑑別とかをしてくれる安心感とかは……。

「それを決めるのは、たぶん、医者じゃないです。お医者さんが、我々には存在価値がある、給料に見合った仕事をしているといくら声高に主張しても、そのときそのときの患者さんが、まあこれくらい……ちょっと熱はかって、棒つっこんで、陽性ならインフルで薬がポン……これくらいなら、医者じゃなくても、AIでいいやと判断するかもしれない。そしたら、それまでなんですよ」

ーー自動診断の世の中では、患者さんが医者のメリットとAIのメリットを天秤にかけてしまう、ということですか……?

「風邪くらいならいいだろう。インフルならいいんじゃないかな。癌ならともかく。そう考えてしまう患者さんの自己選択が、AIによって左右される。きっと、89%はうまくいくんです。そのような世の中で、高給をもらって専門職を遂行している医者の存在価値って、なんですか?」

ーー……。

「AIが医者の仕事を奪うなんてありえない、医師の仕事はもっと複雑だ、医師はAIを使いこなす立場なのだ、って、言うのは簡単ですけど。患者さんの側も、同じように考えるかどうかは、これから次第なんじゃないですか」

ーー……。







という話を、しました。

2017年2月24日金曜日

病理の話(52) 対比病理学へのいざない

バリウム技師さんが集まる会に、しょっちゅう出る。

胃のバリウム検査というのは、すでに古びた技術ではある。しかし、捨てたものではない。内視鏡(胃カメラ)で直接胃を眺めれば病気なんてすぐ診断できるだろう、というのは、ある意味医師のおごりである。

直接見たって、見えないものはある。

自分の姿を一番よく見ているのは自分だとお思いか?

鏡に映った自分の姿は、ほんとうにすべてを忠実に映しているだろうか?

魚眼レンズでゆがめられた像。はすにかまえて、病気を斜めから見通した姿。これらはときに、勘違いを生む。見逃しを呼ぶ。

もちろん、そうならないように、胃カメラは発展してきた。しかし、バリウム検査で映る胃の姿にも、読み応えがあり、意味があり、メリットもある。


だから、ぼくは、同じ胃という臓器を、異なるやり方で診断しようとする人たちが、それぞれに好きだ。胃カメラのプロのことも大好きだし、胃バリウムの達人と働くと心が躍る。超音波だって、CTだって、そうだ。




さて、胃バリウムで見た姿というのは、「影絵」に似ている。

胃に、バリウムという、X線を通さない物質を、厚く塗ったり薄く塗ったりすることで、X線で胃をみたときに、陰影、輪郭、粘膜の厚さ、さらには硬さまでも(空気量を変えたり、直接胃をおなかごしに(!)押したりして)見ることができる。

これらの影絵は、あくまで「影絵」でしかない。病気そのものを直接見に行っているわけではない。

けれど、得られる情報がとても多い。



一方の、病理。手術で採ってきた胃の、病気の部分を細かく切って、病気がどれだけしみこんでいるか、どれだけ広がっているかを確認し、さらに細胞の性状までも解き明かそうとする。

X線や胃カメラで見た「像」と、病理で我々がみる「細胞の姿」、どちらがより患者さんの今後を正確に占うか。



「今のところ」、病理の勝ちだと言われている。

今のところだ。


だから、画像をやる人はみんな、自分たちがみたものが、「病理の答え」とどれだけ肉薄したかをとても気にする。

現代の医学では、画像で得た情報は限りなく「病理の答え」に近い。

しかし、外れることもある。大変に細かいレベルで外れてくる。病気の範囲がちょっとずれていたり、病気のしみこみ度合いが少し違ったりすることがあるのだ。



これらの「ずれ」を是正するために、検討会とか、研究会とか、学会というものがある。みんなで画像を持ち寄って、ああでもないこうでもないと「読影(影を読む)」をし、病理の答えと突き合わせながら、どういう読み方がより説得力があるのかを競い合い、教えあい、共有して、明日につなげていく。



***



ぼくが最近この研究会や検討会で重視しているプロセスがある。

それは、「人はなぜ、間違って読むのか」を、できるだけ言葉にするという作業だ。

うっかり間違う、のならば仕方がない。

再現性をもって、誰が読んでも「間違ってしまう」画像というのがある。そこには、おそらく、それなりの理由がある。落とし穴。ピットフォールなどという。

このピットフォールを、病理の知識をもって洗いざらい明らかにする。こういうミスが起こりやすいのはどういうときか、というのを考えていく。

それが、「対比病理学」とぼくが勝手に呼んでいるものだ。



対比病理学のキモは、記述すること、説明すること、納得すること。

なぜ間違う? そうか、こういう現象があるからか。

どうしてずれる? そうか、こういう可能性も見なければいけないのか。

これらを、医療者がわかるようにきちんと記載し、お互いに通じるように説明をして、みんなで納得しなければいけない。



どうも、この作業だけは、AIにはできないのではないか……などということを、今ほんとうに、めちゃくちゃ真剣に考えているのだが……。


この話はたぶん、また忘れたころに、続きを話すことになる。ぼくは今、自分が使命をもっておもしろく取り組んでいる仕事を、きちんと記述して、人に説明して、納得してもらえるだろうか、という試みに、取り組んでいる。

2017年2月23日木曜日

いつの間にか 社会から ずれったんと

「Wikipedia(日本語版)は、けっこうあやしいことが書いてある」

これ、少なくともツイッターではよく知られた話だ。

でもぼくはWikipediaの「素人が紛れ込んで書いててもわかんないくらいに体裁と構文が整えられた、それっぽい文章」というのがきらいではないのだ。

「読まずにふぁぼる半可通」があたりまえのツイッタランドに生きていると、日本語版Wikipediaのあやしさなんてもう、ぜんぜん許容範囲である。

英語版のほうがしっかりしているかどうかは、ぼくの英語力がしっかりしていないので、わからない。





「下位文化、サブカルチャー (subculture) とは、ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化である。『サブカル』と略されることが多い。」

サブカルチャー、を調べたらこのように書いてあった。

ぼくは、病理医ってサブカルっぽさがすごいんじゃないのかな、という文脈で、サブカルという聞き慣れた言葉を、あらためて調べ直そうとしていた。



「1980年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のサブカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い1980年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: dilettante。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。」

好事家(こうずか)。

そうかあ。

学者や専門家よりも、気楽に素人として興味を持つ者。

なるほどなあ、じゃあ、病理医がサブカルだなんて言ったら怒られるかもなあ。



それにしても、この項目、書きっぷりが、クソサブカルくせぇなあ。




ぼくの、「病理医ってサブカルなんじゃね」という気づきは、「治療して患者さんに感謝されたり、救急で一刻一秒を争いながら重症患者の服にハサミを入れて電気ショックを与えたりする医者こそが、メインストリーム、本道である」という、世間が共有するイメージに対しての、なんというか、あこがれというか、屈曲した嫉妬というか、そういったものに由来しているのだと思う。

「病理医は、治療もしないし日も当たらないけど、それをむしろ誇ったり、スカしたりしている」

これって、なんだかサブカルっぽいな、くらいのイメージだった。

けど、サブカルチャーという言葉をきちんと(?)調べると、なんか安易にサブカルって言葉を使うのもどうかな、という気持ちになってくる。




「近年では、教養そのものが揺らいでおり、従来ハイカルチャーを支えてきた知識人も大衆文化やオタク文化に注目しているのが現状である。趣味・嗜好の多様化・細分化や価値観の転倒により、従来サブカルチャーと見られていたものが一般に広く評価されるようになったり、ハイカルチャーの一部であったものがサブカルチャーとして台頭するという逆転現象も見られるようになっている。例えばかつては、歴史や古典文学について最低限の知識を持つことは当然で、そうした知識に精通することはハイカルチャーと考えられていた。しかし、近年では知らないことを恥じるどころか、歴史や古典文学についてある程度の知識を得ることさえもオタク趣味の一つとみなす傾向が指摘されている(とくに日本文学や日本史にこの傾向が強い。[要出典])このように、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界、色分けは曖昧となってきている。」



ぼくこの「要出典」、大好き。





「一般にサブカルチャーは、個々の主観によって自立して成立する行動様式の理念として昇華した、『顔の見える文化』だといえる。とはいえこのサブカルチャーは『顔の見えない』側面持っていることがある。」


「も」「ことがある」


ああ、うん、よく使うなあ、この言い回し。



そうか、病理医ってサブカルじゃね? の前に、病理医ってWikipediaに似てね? を検証すべきだったのかもしれないし、うん、病理医という広い主語を使うとまたツイッタランドで怒られるだろうなあとか、そう言ったことが次から次へと気になりだしている。

2017年2月22日水曜日

病理の話(51) チンピラはいつあらわれるのか

いろんなところに書いているようで、実はきちんと書いていないことを書く。


「腫瘍」というと、がんのイメージが強いが、必ずしも腫瘍とはがんを意味する言葉ではない。もっと幅広い言葉だ。

このあたりの詳しい説明は昔このブログでも書いたことがあるので、今日はあまり繰り返さないが(「がんの話」シリーズがあります)、ちょっとだけおさらいをする。



正常の細胞を一般の善良な人々に例えると、腫瘍細胞は「チンピラ」に当たる。

善良な人々は、規則正しい生活を送る。仕事をしている。いるべき場所を守る。

ちゃんと仕事をしない。いてはいけない場所にいようとする。群れて増えるごくつぶしである。

正常細胞と腫瘍細胞の違いは、こんなところだ。以上の言葉は専門的には、分化異常、増殖異常、分布の異常、浸潤、不死化、異常代謝などの言葉であらわされるけれど、チンピラの悪行三昧と覚えておけばよい。

さて、このチンピラもまた、人間である、という話をする。



チンピラが完全にエイリアンとかモンスターのような異形のものであれば、攻撃するにあたっても目標を認識しやすいのでべんりなのだが、チンピラはしばしば、善良な人々と同じような姿をとる。

大腸がんの細胞は、もともと大腸の表面に存在する「大腸の上皮」に似た性質を示す。

膵がんの細胞は、もともと膵臓の「膵管」という構造に存在する「膵管上皮」に似ていることが多い。

乳がんの細胞は、もともと乳腺の「乳管」という構造に存在する「乳管上皮」に似ていることが多い。

胃がんの細胞は、「胃腺窩上皮」や「胃で腸上皮化生を起こした上皮」という細胞に似ている。



で、これらを、医学生も、医者も、このように表現することがある。

「胃がんというのはですね、胃にある粘膜の、腺窩上皮という細胞が悪くなったもので……」

「膵がんはですね、膵管上皮から発生していまして……」

難しい言い方であるが、つまりは、

「善良に暮らしていた人々が、なにかのきっかけでグレて、チンピラになってしまった。」

ということを言っている。




これは、おそらく、正解ではないだろう、というのが最近の学説である。




人間の世界ではそういうこともあろうが、細胞に関しては、

「善良なまま大人になった人は、めったなことではチンピラにはならない」

だろうと言われているのだ。




では、チンピラになるのは誰か?

チンピラになるのは、赤ん坊なのだ。これから大人になろうとする、生まれたばかりの細胞。これが、かなり初期の段階で、チンピラとしての人生を歩み始める。




大人がチンピラになるか、赤ちゃんのころからチンピラへの人生を歩むか。

細かい違いだけれど、重要なのである。治療に関する研究をする上でも、あるいは、がんを早期発見するための研究をする上でも。






ある日、ぼくが、このような病理報告書を書いたとする(今さらっと考えたフィクション症例ですし、こういうのは実はやまほどあります。特定のモデルは存在しません)。


「本病変は、免疫組織化学により、MUC5ACが表層部に陽性。MUC6, pepsinogen Iが中層から深部においてさまざまに陽性。H+/K+ ATPaseが散在性に陽性となります。すなわち、胃の腺窩上皮に分化を示しつつ、深部では頚部粘液細胞、主細胞への分化も示す病変であり、いわゆる胃底腺粘膜型胃癌と呼ばれるものです」


この一文には、「チンピラがもつ性質」を書きつつ、「もしこのチンピラが、善良な人々として育つ ”if” の世界があったら、どんなところで働いていたであろうか」ということを書いてある。


手練れの内視鏡医たちは、この文章を見ながら、

「そうか……頚部粘液細胞とか主細胞の性質を持つのだったら、粘膜の深いところでこっそりと横や下に広がりたがるわけもわかるかもしれない……だから胃カメラでは、このがんが妙に ”スネーク” してるように感じたんだな……こいつは暗躍するタイプのがん細胞なんだ」

ということを想像してくれる。



最初に出てきた、おとながチンピラになったか、赤ちゃんからチンピラになったか、関係なくない? と思われた方もいるかもしれないが、そのあたりのイメージが正しく備わっている人のほうが、より「がん細胞の気分を適切におしはかる」ことができる。

チンピラにも人生があり、性格があり、得手不得手がある。これを読み解くのが、細胞分化を読むということなのだ。





ぼくらは、人が不幸になる原因である「腫瘍」、あるいは「がん」を、よく、人に例える。

プレパラートの中に、「がんがいる」と表現する。

これを、嫌う人もいる。

がんは、ものだ。敵だ。

「いる」なんて言わなくてもいい。「ある」でいい。



でも、つい、人に例えてしまう。

もし、違う世界線であれば、善良な細胞に分化できたであろうチンピラのことを思い、その性質をおしはかって、その上で、容赦なく倒しに行く。

少しだけ後味の悪い想像を抱えながら、がん診療は続いていく。

2017年2月21日火曜日

感想欄には来年も後輩に性病の話をしてあげてくださいと書かれていた

とある看護学校の、病理学の授業を担当している。先日、試験が終わったので、採点をしなければいけない。この採点がとても時間がかかる。

「記述式の大問4問」なのだが、ぼくの試験では事前に試験問題を公開しており、公開した問題に応じて
「試験の3週間くらい前から、対策を練らせる」
ということをやっている。

A4一枚の紙に総務課のハンコを押したものを配付し、その表裏にぎっしりと、「試験の対策」を書いてきてもらう。当日は、「対策プリント」を書き写せばそのまま回答になる。

コピペ自由、友人どうしでの共有も自由。

そして、対策プリントに40点という配点をつけ、当日の試験問題が60点。合格は60点以上、平均点は90点くらいになる。まあ確実に全員合格する。

そう、これは、「テスト」という名の、2段階レポートシステムなので、きちんとレポートを作って提出してもらえば単位にはなるのだ。



さて、このレポートの採点はとても大変だ。そこかしこにコメントをつけていく。30人分の採点をするには、ほんとうに30時間くらいかかってしまう。1か月くらいかけてひいひい言いながら採点をする。

最初、よさげに点を付けてしまうと、あとあと出てきた「もっとすごい答えを書いた子」に対する点数が不当に低くなってしまうので、一通り目を通してコメントしてから「2周目」に入り、そこではじめて点数を付ける。



これをやってきて、思うことがある。



小学校、中学校の先生なんてのは、ああ、ほんとうに、偉かったなあ……。

毎日まいにち、子供たちのプリントにあれこれとコメントを付け続けてくれていたっけなあ……。

きっと、疲れた日には、カトちゃんケンちゃんでも見ながらビール飲んでさっさと寝たかったろうになあ……。

夜通し、採点だけし終えて、翌日の準備なんかしてたら、ほとんどプライベートなんてなかったんじゃないかなあ……。



ぼくらは常日頃、「自分の仕事はとても大変である」という文脈を、必死に押し殺して生活しているような気がする。誰よりもつらい。誰よりも忙しい。厳重にフタをしめ、紐でグルグル巻きにした、本音の壺の中から、「俺なんか」「俺こそが」という声が漏れ聞こえてくる。

でも、それは、他の人の生活を想像できないからなんだろうなあ、ということを考えている。

自分ではない他人が、目の前にある仕事にどのように取り組み、どのように苦しみ、どのようにサボるかなんて、ほんとうにその人と同じ立場になってみないと、もう、絶対に思いも寄らないのだ。

なのに、自分がいちばん忙しいなんて、どの口が言えるというのだろう。

自分がいちばん大変だなんて、思わないとやっていけなかったのだろうか。

担任の努力に気づくまでに30年も必要とする程度の人間が、何をどう、比べてきたのだろうか。

2017年2月20日月曜日

病理の話(50) 相談しようそうしよう

病理診断は、比較的フレックスな仕事だ。患者さんと直接会話するわけではない。みるのは、プレパラートだ。つまりは、患者さんが病院に来ているタイミングに仕事をする必要がない。

正直なことを言えば、1日のうちいつ仕事をしてもいい。

とは言っても、病理医は多くの医療者と会話をしながら仕事をするので、あまり他のスタッフと異なる時間に出勤するのはよろしくない。自然と、日中をメインとして働くことにはなる。

けれど、ときに、夜になっても朝になっても、診断が決まらないことがある。

診断が、難しいときだ。



自分の診断に自信が持てない。そもそも、診断がわからない。

いつまでも教科書とにらめっこして考えているわけにはいかない。

患者さんにだって都合がある。生活がある。プレパラートには外来の時間制限はないけれど、病気は待ってくれるとは限らない。ちんたら1か月も2か月も診断に手間取っていたら、その間に病気は進行してしまうかもしれない。

待たされる患者さんはさぞかし不安だろう。

医療者だって困る。次の診療のステップに移れない。予定が立てられない。



そういうとき、病理医は、「相談」をする。同じ病理医に。マンガ「フラジャイル」にも出てくるので、知っている人は知っているだろう。



ぼくもまた、診断の相談をする。たいていはうちのボスと相談する。ボスは頼りになる。

「頼りになるボスがいる施設に就職したこと」は、ぼくの大ファインプレーだ。思い切りほめられていい。

ほかにも、肺や悪性リンパ腫で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、軟部腫瘍で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、電話をかけ、プレパラートを持って、聞きに行くことがある。

「コンサルテーション」という。

コンサルテーションは、人に診断を決めてもらうためのもの、ではない。あくまで参考意見を聞くために行うものだ。診断の責任はいつだって、「主治医」である自分にある。偉い人に話を聞いて、自分の頭がすっきりしたり、いい勉強になったなあ良かったなあと感動するなりしたあと、必ず「自分で」責任もって診断を出す。

自分がほんとうに優秀な病理医になれば、コンサルテーションは必要なくなるだろうか? コンサルトが必要になるのは、自分が未熟だからなのだろうか?

そういうわけでもなさそうだ。

これだけ医療が細分化すると、自分ひとりで全ての領域を完全に把握するというのは困難である。

診断に必要な試薬などが自分の病院だけでは揃えられないこともある。

だから、日本病理学会では、公式に「コンサルテーションシステム」を作っている。病理学会にメールをしてお金をふりこむと、その臓器、病気に詳しい「コンサルタント」を全国から探し出して、紹介してくれる。

そんなこともやっている。



さて。

ぼくは「コンサルテーションをうける」方に回ることもある。ぼくは消化管病理が少し得意なので、胃や大腸などの病気について相談をもちかけられることがあるのだ。日本病理学会のコンサルテーションシステムにコンサルタントとして登録されているわけではない(そこまで偉くない)から、仲の良い病理医の方々などに、ちらっとたずねられ、ちょっと見てみてよ、くらいのノリだ。

コンサルテーションにくる症例というのはたいてい難しい。だから、とても困る。他の人が見て難しいものを、自分が簡単に見てわかるということが、どれだけあるだろうか、と思う。

必死でコンサルトを受け続けていると、世の中の病理医が、どんな診断に困っているのか、何が難しいと思っているのかが、少しわかってくるような気がする。

彼らの感じた難しさは、ぼくも常日頃から感じていることである。だから、お返事に、このように書くことが多い。


「標本、拝見致しました。先生のおっしゃるように、診断の難しい病変です。私は○○と△△という根拠をもって□□という診断に一票を投じますが、根拠、結論とも、先生のお考えとほとんど一緒です。大変貴重な症例を拝見させていただき誠にありがとうございました。」

実際に、下線を引いたりもする。


あんまり、相談者の役に立っていない気はする。どちらかというと、こんな難しい症例を検討させていただくという貴重な機会をくれてありがとう、と、頭を下げることが多い。

「低姿勢すぎるコンサルタント」として笑われたことがあった。

「~~すぎる」のくくりの中では、ずいぶんとまあ残念なあだ名だなあ、と思う。

2017年2月17日金曜日

すごい衝撃だ ズッカーン

国語辞典とか漢和辞典を先頭から読みあさっていくのは楽しいが、たいてい「さ」のあたりで寝てしまっていた。辞典編纂をなさっている飯間さんなんてのは、すごい。たとえばぼくが子供の頃、彼のセミナーか何かを聞く機会があったら、強烈にあこがれただろう。

分厚くて知恵のうまみが凝縮されているような本をみるとテンションが上がる。結局、買ったところで「通読」までできるのはほんの一部にすぎないが、ことわざ辞典とか、季語の辞典とか、ほかにも大百科とか図展の類いはとても楽しかった。こども図鑑がいっぱい並んでいる図書館はパラダイスだった。どれもこれも、最後まで読み通したことはなかったが。



最近、さまざまな本や教科書に触れる機会が増えてきたが、一般的な辞書や図鑑のたぐいをひもとく機会は激減した。しかし、たまたま先日、札幌駅の上にある本屋の「こども用の図鑑」の棚で立ち止まり、立ち読みをしてみたところ、けっこうな衝撃をうけた。

絵が細かい。書き込みが多い。

ポップな書体で「人体」と書かれた、小学生用の図鑑。肝臓の小葉構造やグリソン鞘における動脈・門脈・胆管など、肝臓専門医がようやく勉強するレベルのミクロの世界が、CGをふんだんに用いた美麗なフルカラーイラストで、見開きいっぱいに豪華に描かれている。ぼくは愕然とした。専門書のイラストよりもはるかに色数が多く、表現は3次元的で、込みいった見づらさはないのに必要な情報がすべて書かれている。

そして、安い。専門書の10分の1くらいの値段ではないか。



自分がこれまで書いてきた、病理の解説用のイラストの、なんと陳腐であったことか。

ぼくが今まで頼りにしてきた教科書の図版なんて、小学生用の図鑑に比べたら足下にも及ばないのだ……。



ぼくは何かを背負っているわけではない。誰かを代弁できる立場でもない。でも、なんだか、くやしく、あこがれてしまった。

ぼくは、自分の仕事を、「子供に伝えるほどの努力」を、してきたのだろうか?




先日、子供の頃に読みふけった「大図展 VIEW」という図鑑を、古本として購入した。だいぶ古い本だ。当時は写真ばかり眺めていた。今になって読み返してみると、本の最初のあたりには膨大な量の「文章」が載っている。文章のくだりは昔は難しくて読めなかったから、ほとんど記憶にない。どれどれ、誰が書いているのかな、と目を通して驚いた。

巻頭言は小松左京である。

トピックスには医療の項目もあった。「がん」のところでは、次世代の新技術と称して「RI検査(つまりは核医学だ)」や、「PET」の文字が躍っている。がん遺伝子、がんの特効薬についての記載もある。

うーん。すごいな。

隔世の感はあるし、たしかに医療はこの30年で大幅に進歩したんだなあと思うが、その「見せ方」は今と比べても全く遜色がない。



ぼくはもうすこし辞書や辞典、図鑑を読むべきなのかもしれない。

2017年2月16日木曜日

病理の話(49) 誠意に対する細かすぎるお手伝い

「超音波」と、「CT」と、「MRI」とで、見え方が少しずつ違う肝臓の腫瘍、というのがあった。

見え方が違う、と言っても、画像のプロでなければ区別がつかない。つまりは、ぼくの目にも、

「まったく同じじゃねぇか」

と見える。

しかし、プロは言った。

「うん……いいんだ、これは『肝細胞癌』という病気で間違いない画像だと思うんだ。しかし、なんていうかなあ……一緒にCT見てもらっていい?」

モニタを覗き込む。

「この病変さ、ひとかたまりではあるんだけど、画像よく見ると、いくつかの成分が混じってると思うのね。

こっちと、こっち。微妙に、造影したときの染まり方が、違うじゃない」

造影CT検査の画像をあちこち見比べる。

確かに、ひとつの病気の中で、「それほど白くない部分」と、「もっとはっきり白い部分」が、分かれているように思った。

「だからね、こっちはいわゆる『早期の肝細胞癌』で、こっちは『少しだけ進行した肝細胞癌』とか、そういう解釈をしたわけ。でもね、MRIみて」

プロはマウスをかちかちやって、MRIの画像を表示させた。

「MRIでT1のinとout見比べるとさ、ここには脂肪がありそうじゃない。脂肪成分。ふつうはさ、肝細胞癌だとさ、脂肪が含まれている部分ってのは、高分化じゃない」

ぼくはうなずく。ここまでの説明は、すべてよくわかる。では、何が問題なんだ?

この病気には、「早期肝細胞癌(そこまで悪そうじゃない癌)」と呼ばれる成分と、「少し進行した肝細胞癌(そこそこ悪い癌)」と呼ばれる成分が、それぞれ含まれているということでいいじゃないか。



「でもね、MRIではこっちのほうが、より悪そうな癌に見えるの。CTと逆なの」



あっ。逆だ。確かに……。

なぜだろう。CTでの造影態度からの予測と、MRIでの成分分析の予測が、食い違っているように見える。



超音波の画像を出す。二人で覗き込む。

「うーん、MRIで脂肪だと思ったところは確かに高エコーですね……」

「そうでしょう。だからMRIで脂肪だってのはあってると思うんだけどさ、造影エコーもみて」

「うーむ、あれ、脂肪がある方が、造影がむしろ早いなあ……」

「なんか、CTともMRIとも微妙に違うよね。でね、病理、どうだったのかなあと思ってさ」

「わかりました。おまちください」





この患者さんは、臨床医によって「正しい診断」をつけられ、「適切な手術」を受けて、「体内から癌がなくなった状態」を達成している。引き続き、内科を定期的に受診することにはなるが、ここまで何も問題らしい問題は起こっていない。

それでも、このプロは、疑問があった。

診断があっていたのはいい。

しかし、CTとMRIと超音波画像の解釈が、自分の中でわずかに食い違ったままだ。

それが許せない。




「先生に言われて、その目で顕微鏡見てみたんですけど、これじゃないですかね? この病変、全体が高分化でいいと思うんですよ。で、こっちは脂肪沈着がある。こっちは分化度が低いんじゃなくて、類洞の拡張傾向、peliosisがある」

「ペリオーシス? それがあるとどうなる?」

「病変内の類洞様構造が拡張すると、流速の低下が起こるので、分化度が下がらなくても造影態度が変わるのかもしれませんよ」

「なるほど……そんなこともあるのかなあ。ちょっとまって、病理の肉眼像みせて。画像とあわせてみる」

「じゃあ、ぼく、肉眼像にマッピング付けたやつ出します」




このやりとりは、我々の自己満足なのかもしれない。

患者さんにはちんぷんかんぷんだ。

でも、ぼくらは、こういうやり方が、まだ見ぬ患者さんへの「誠意」なのではないかなあと、ひそかに思っている。



顕微鏡を見ることで、臨床医の誠意に「相乗り」できる時がある。

2017年2月15日水曜日

最終回じゃないぞよ

そろそろパソコンなんてのは、CPUも不揮発性メモリもぜんぶサーバー側においといてもらえばいいんじゃねえの、と思う。ぼくらが個別に持っていなければならないのは、心情的に手元においておきたいデータを入れるハードディスクと、モニタ・インターフェース。あとはもうぜんぶネット上でやっちゃえばいいんじゃねえの。

パソコンが新しくなるたびに買い換えないと最新のソフトがうまく動かせない、とか、iTunesの通算285回目のアップデート、とか、こんなこといつまで続けなければならんのかと思うわけである。とっくに開発されてるんだろうけど。買ったらあとはもう何もしなくても常に最新、というシステム、理論的には可能でしょう? ネット速度の問題とかあるんだろうけど、仮想化とか並列処理がめきめき進化してるんだし、いずれなんとかなるんでしょう?

……そこまで技術革新したら、パソコンの売上げが落ちちゃうか。企業も生きていけないかな。

いやあ、そうでもないよね。定額制か何か導入すればいいわけでしょう。要は、「購入」とか「所持」とか「アップデート」みたいな概念ごと、この先変えていけばいいんだ。変わらなければいけないんだろうな。



変な話だけど、「籍を入れないけど家族です」なんてのも、立派に人間の新しい生き方ってことになるのかもしれんけど、なんだか似たようなことをコンピュータ業界も進めている気が、するんだよ。



で、


医療はどうなのってのを考えて、考えて、次の病理学会でもそういう話を担当することになりそうなので、「病理の話」じゃない回の記事(つまり今日のこれ)にも、こういうことを書いてしまっている。


ああ、ぼくは、自分をマルチタスク型の人間だとばかり思っていたけど、高速並列処理の多層化ニューラルネットワーク内蔵(三食充電式)とかうそぶいていたけど、あたまの中が、ひとつのことでいっぱいになっているじゃないか。


どうした、大脳。


その「ひとつ」とはおそらく、そう遠くない未来にぼくらが遺跡になったとき、廃墟を訪れる人々からどうやって尊敬を集めたり金をとったりすればいいのか、どうやったらぼくらの「博物館」は存続していけるか、ということである。

単に病理に限った話でもないもので、どうしても、考えてしまうのである。




次回の更新、「病理の話」はまだ49回目なのですが、ブログの通算ですと第100話となります。ちぇー、病理の話も50回目だったらちょっとかっこよかったのに……。

2017年2月14日火曜日

病理の話(48) AI診断のゆくすえ

「先生ね、こないだ、ある会で、内視鏡の自動診断技術ってやつ見たのよ」

いきなり、こう話し掛けられた。よくあることである。ぼくはこの年上の有名なドクターと話をしたことがなかった。彼の話す講演を聴いたことがある。学会で口角泡を飛ばす彼を遠目に見たことがある。ぼくよりずっと実績があり、えらいひとだ。

医者をやっていると、ぼくみたいなザコでも先生と呼ばれる。先生とは「君の名前は覚えていませんが、お互い敬意をもってお話しましょうね」という意味の言葉だ。

「それでね先生、ああ、すごいなあって思ったんだけど、あれ、実際、病理医の目からするとどうなの? 陽性的中率が90%以上で、ポリープを表面から見るだけで、がんか、がんじゃないかがわかるって言うんだけどさ……。やっぱり病理医からすると、その10%が不満って話になるのかなあ」



彼の言っている技術は、こういうことだ。

胃カメラや大腸カメラで映し出された画像を、コンピュータが瞬時に解析する。大きさ、色調はもちろんだが、その表面がどれだけごつごつしているか、表面の模様にムラがみられるか、一部削れたりえぐれたりしてはいないか、そういった「形態」を自動で分析して、病気が命にかかわるかどうかを判断する。

こういう技術は、たいてい、「病理診断とどれだけ一致したか」が問われる。病理診断というのは、診断界の「基準」であるから、病理診断と少しでもずれた結果をはじきだしたコンピュータは「まだ臨床段階ではない」と言われてしまう。



だからぼくは素直にこう答える。

「いやあ、まあ、10%間違うんなら、実用はまだ無理ですね……。そこはこれからの技術革新に期待しましょう。医療の世界で10%ミスしてたら、賠償金だけで病院がつぶれます」

おそらくはこれが、彼がぼくに対して「ほら先生、言ってみろよ」と期待している声のすべてだろう、と思う。

だから、付け加える。

「ただ……。この先、画像解析データが、病理診断を答え合わせに使うのではなくて、電子カルテのデータ、もっと言うと、この患者さんがこの先どうなったか、生き残ったのか、死んだのかというデータを答え合わせに使うのであれば……」

彼は、すぐにぴんと来たらしい。



「そうか、”病理診断が100年間違っていた”ことを、コンピュータが見つけ出すかもしれないのか」



病理診断というのは、人間が100年にわたって積み重ねてきた「形態」診断学である。細胞や、細胞が作りなす構造を、人間が見て、これはおそらくこういうことだ、この見た目があるときは癌が再発する傾向にある、こういう構造をしているなら急いで治療をしないと採り切れなくなる、などと、統計を元に判断を繰り返してきた結果が、今ある病理診断の姿だ。

病理診断の精度は極めて高い。患者のこれからを、かなり正確に推測することができる。

だから、胃カメラや大腸カメラなど、「臨床医が見た姿」はまず、「病理診断とどれだけ一致するか」という視点で検討されてきた。

しかし、病理診断は精度の高い診断ではあるが、決して、患者さんの将来そのものではない。

あくまで、「患者さんの将来を予想するもの」である。



たぶん、なのだが、今後のコンピュータ診断……ビッグデータをディープに解析するやり方は、おそらく、病理診断を目的にする必要は無い。「患者さんの将来」を直接相手取ればいいのだ。

病理診断と合ったか、間違ったか、ではない。患者の将来を予測できたか、予測できなかったか、を目標にする。

AIは、ある種の分野では、病理診断を超える精度で未来を予測できるのではないかと考えている。



「で、どうなの先生、もっと技術が進んだら、先生の仕事とられちゃうの?」

彼は笑った。

「ええ、たぶん、そうですね……AIが出した結果は、患者さんはおろか、医療者にもわけわかんなくなるレベルの推測になってくると思うんですよね。今ある、○○癌取扱い規約みたいなやつも書き換えになると思うんですよ。

そんな複雑な規約を読み解いて、患者にも、臨床医にも、うまく説明して、納得してもらえる人がいるとしたら、それはたぶん、病理医と呼ばれているんじゃないかなあって思うんですよ」

彼は名乗り、つやつやした名刺をくれた。

2017年2月13日月曜日

生命を与えるものの筋道

もう長いことアニメ見てないけど、最後に見たアニメってなんだっけ、と考える。

「峰不二子という女」だった気がする。

ぼくはたぶんアニメとかほんとうはすごい好きなはずなんだよな。

だって、アニメが好きな人の言ってることが、すごいわかるし……。




「○○が好きな人」の言ってることがわかるかわからないか。

自分が○○を好きになるとは限らないんだけど、その人が言う意味はわかる、ということ。

何かが楽しい、何かが好きだと公言する人の、「筋道が通っているかどうか」は重要だと思っている。

その筋道がぼくにも理解できる場合には、何かうれしい偶然があれば、ぼくだってその○○を好きになれるだろう、ということだから。




ところで。

自分がいやだなあと思う人、にも、考え方の筋道がある。

前提や付置条件が違うだけで、話のつじつまはあっている。

論理的ではある。自然な考えでもある。

自分はこうはなりたくない、と、軽蔑している人間であっても、その人の中で筋は通っているのだ、ということを、最近いろいろな方面から教えられた。



「自分はその方向には絶対に行かないし行きたくないけど、その人の考えの中ではつじつまがあってる」、ということ。

名著「質的社会調査の方法」の中には、「他者の合理性」という言葉が出てきた。浅羽先生という方も、共感はしなくてもいいが理解はできるはずだ、とおっしゃっていた。

ああそうか、なるほどなあ、と思う。この年にして。この年になったから?

田中ひろのぶさんという人のツイートを見ていたら、若いときのほうが不寛容だという趣旨のことを書かれていた。そうかもな、年を取ると寛容になるのかもしれない。



その人が抱える背景、事情をくみつつ、その人が編んでいる理論構成に納得をし、それでもなお、相手を自分の色に染めたくなる日というのは、この先、くるだろうか。

ぼくはそこまで繊細ではないから、お互い、わかりきらん部分はあるけど、筋道が通っているってわかればそれでいいよと、あきらめて、放り出して、そのまま自分の部屋に戻って鍵をかけるようになるのではないか。




そうか、そういえばぼくは、

「アニメの好きな人が言うことはわかる」

けど、

「べつにアニメが好きなわけではない」

のかもしれないんだなあ、と思った。

でも、最後に見たアニメは、峰不二子ではなくて、「この世界の片隅に」だし、あれはほんとうにおもしろかったから、うーん、やっぱり、アニメ好きなのかなあ。

(追記: この記事を書いたあとにけものフレンズを見始めました)

2017年2月10日金曜日

病理の話(47) 職務に対する印象と劣等感のはなし

病理医は患者と会わないため、社会的な認知度が低いのだが、これに加えて、病院内で最も人数の多い看護師と一緒に仕事をしていないために、そもそも医療関係者における知名度も低い。

だから、しょっちゅう、自分の仕事を説明するはめになる。たとえ病院内にいたとしても、だ。どんな病理医も、けっこうな頻度で、「どんなことしてるの?」と尋ねられている。

外科医とか、消化器内科医とか、泌尿器科医などであれば、普通は「だいたいのイメージ」があるので、「どんなことしてるの?」みたいな根源的な問いはあまり受けないのではないかと思うが(想像です)、病理医はこの質問をとてもよく受けるように思う。少なくともぼくは、しょっちゅうこの質問を受けている。


ところで……。


ぼくは医学部に入るまで、「外科医」というのは外科手術をするのが専門の、「職人のような仕事」、あるいは「力仕事」だと思っていた。アーティスト。脳筋。体育会系。そんなイメージがあった。ところが、実習で1日外科医に随伴してみると、その仕事の幅広さに驚いたものだ。

なるほど、適切な手術をしようと思ったら、病気がどこからどこまで及んでいるかを適切に判断しなければいけないし、臓器の奥に切ってはいけない血管が走っていることを画像から見抜かなければいけないし、どこをどれだけ切ったら体の機能が維持できなくなるだろうかを計算して臓器を切らなければいけないし、ちょっと考えれば、外科が単なる立ち仕事の体力勝負ではない、ということはわかる。

職業名を聞いて、素人が「瞬間的にイメージ」する像なんて、まあ、外れていて当然なのだ。



あくまで個人的な観測経験ではあるが……。

外科医は、非医療者に「体力勝負ですよね」と尋ねられたとき、「そうですね、ひたすら切ってますね」などと答えるが、あえてその「微妙にずれたイメージ」を直そうとはしない。

「いやあぼくらは別に、ただ切ってるだけじゃないんですよ」みたいに、細かく説明する人は、思いのほか少ない気がする。

自分の仕事に誇りをもっていれば、そして、世の中が最低限度の理解をしていてくれるなら、細かい訂正にやっきになって、「体力勝負だけじゃなくて頭も使うんだ」とがなりたてるようなことは、あまりしていないようだ。



職業のイメージなんて、その程度でいいんだよな、と思う。まじめに将来のことを考えて、外科医になるかどうか今とても悩んでいる人というならばともかく、他愛ない日常会話で、自分の仕事をきっちり過不足なく伝える必要はない。にこにこ話題がふくらめば十分であろう。



ひるがえって、ぼくは、「病理医ってあの顕微鏡ばっかり見てる仕事でしょ」、と問われた時に、今まで、どうやって答えてきただろうか。

いや待ってくれ、顕微鏡ばかりじゃないんだと、弁解にいそしんできたのではないか。

病理医のイメージを正しく伝えるために必要なことだと思っていたけれど、その必死さが、「別の」イメージを産み出してはいなかったろうか。

もっと、仕事に、ふつうのプライドをもって、会話を楽しむだけの余裕をもつべきではなかったか。




ぼくは、何か、ぼくの仕事に対する積年の悩み・劣等感を、見透かされたような気になってはいなかったか。

そして、プライドを言葉にすることで、かえって何か落ち着きのようなものを、失ってはいなかっただろうか。

2017年2月9日木曜日

どこでもドアはすぐ立て付けが悪くなる

ブログの管理欄に、グーグル・アドセンスからの注意書きが表示されるようになった。

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そうか、これが、みんながブログで金儲けをするやり方なのか。

心の奥にあるドアがちらりと空いて、「他人のムダ毛処理を見させられているような時に放つ感情」が顔を出した。

その顔の向こうには、「不倫の言い訳をするために村上春樹のフレーズを暗唱する人を見たときに放つ感情」が心配そうにこっちを見ている。

脇には、「背が高く体の引き締まった男に自分の彼女がすっかりほれ込んでいるとき、ぼくも昔は運動していたんだよと過去をひっぱり返して自分語りをはじめる男を見たときに放つ感情」がこたつに入ってつまらなさそうにしている。

誰かが急いでドアを閉めようとした。そいつは「居酒屋で成功者のインタビュー番組を見ている中年が、なんだよセックス弱そうな顔してんなあ! とどなったときに放つ感情」であろうと思われた。



別のドアが、ガチャリと音を立てて開いた。中からいっせいに、

「安っす!」

「しょっぼ!」

「雑っ魚!」

などの罵詈雑言ミサイルが飛び出した。瞬間的に、「床屋代になるんだから贅沢言うな砲」、「こういうのをきっちり積み重ねていく人間が最終的に幸せをつかむんだ弾幕」、「何様だと思ってるんだ世の中なめんなビーム」などが地対空砲撃をする。残骸が降り注いで、地面にぶつかる音がする。好きずき、好きずきと鳴り響く。



大学1年生のときにホームページを作り始め、15年ほど続けていた。以前にもここに少しだけ載せたことがある。引っ越しを機会に、うっかり前のプロバイダのサーバ内にデータを入れたままで新しいプロバイダに切り替えてしまい、消滅したあのホームページ。

やっている間中、なんでそんなもの続けているの、と、何度かたずねられた。お金になるわけでもないのに。

「いやー、こんなのは、お金のためにやってるんじゃないんだよ」

と答えながら、心のどこかで、「まあ本気でそうやって金稼ぎのためにやってたら、それなりに稼げるだろうけどサ、俺はほら、本職で金稼ぐから、こういうのは無償でやるのがいいんだ」と、うそぶいている感情があった。


で、フォロワーも増え、発信力もついたと思った今、Googleがぼくのブログに付けた値段は、月に2800円、であった。


ドアが破壊され、壁が崩落し、中から笑い声とともに、「どの口で金稼ぎだよwwwww月に2800円で生きていくつもりかよwwwwwwwお前そうやってきれいごと言ってて実際そこまでの実力ねぇんじゃねぇかよwwwwwwwうけるwwwwwwww」と大声でゲラゲラまくしたてるガングロ女子高生みたいな感情がいっせいにあらわれた。


ぼくは頭を抱えて笑っている。「ブログはいろいろな扉を開ける」というが、ほんとうだ。

2017年2月8日水曜日

病理の話(46) 長嶋教授のこと

何度か書いたことのあるエピソードではあるが……。


ぼくがまだ、病理医になるなんて思いも寄らなかった頃の話をする。


当時、医学部6年間のうち、最初の1年半くらいは、「教養講義」というのがあった。これはつまり、「他学部の学生と何も変わらない期間」である。医学のことはほとんど学ばない。統計学とか化学とか、文学とか、語学とか、北大さながらの「低温科学研究所のはなし」とか、「釧路湿原の科学」であるとか、そういう雑多な講義を楽しく受けていた。

こういうのを受けていると、大学生だなあという実感はわくが、一方で、「はやく医学の勉強をさせてくれい。ついでに肩揉んでくれい((c)ライス)」という気分になる。

2年生の中頃から、満を持してはじまった医学講義。しかしその大半は、生化学や生理学といった「超基礎」であった。まだまだ医者としてのなんたるかにはたどり着かない。それ以前の基礎知識が山ほど必要だったのだ。がくぜんとする。ただ、解剖学などの「人体に触れる講義」もはじまったので、気合いは入った。

そして1年ほど経つと、いよいよ「ベッドサイド」が遠くに見えてくる。でもまだだ。やらなければいけない勉強がある。

それが、「病理学」であり、「薬理学」であり、「細菌学」であり、「腫瘍学」であった。



もうそろそろ医者にさせてくれよ! という我々の前に立ちふさがる、基礎と臨床の端境のような存在。それこそが、生まれて初めて「病理学」というものに触れたときの、我々が感じる印象だったのだ。



今でも覚えている。



病理学は「I」と「II」があった。それぞれ、病理学第一講座と、病理学第二講座の教授が、初回の講義を担当する。「I」の教授は、マウスを使った疾病研究の話を1時間半やった。難しすぎてよくわからなかったが、これこそが患者の治療につながる医学なのだと、背筋を伸ばし、ストレートネックを倒して、がんばって勉強したものだ。

そして、とうとう、「II」の講義がはじまった。

いや、はじまらなかった。

開始5分、10分、教授がやってこない。どうも何か仕事があるらしい。開始20分経って講師がこない場合は休講になるというルールがあった気がする。30分ほど経った時点で、学生のほとんどは食堂や図書館などに消えていき、教室には特にやることを考えていなかった12,3名程度が残っていた。

ぼくもそこにいた。

開始35分。教授がやってきた。

「いやーすみません。遅れちゃった。」

「ではちょっとだけ講義をしましょう。人はだいぶいないけど、まあいいよ、来週からはぼくじゃない講師がまじめにやります。」

学生達は呆然とした。やってくるのは遅いのに、展開が速かった。

彼は、大教室の黒板の右端のあたりに、小さめに「炎症」と書いた。

「今日は、炎症の四徴についてお話しします。」

続けざまに、「発赤」「腫脹」「疼痛」「発熱」と書いた。

「これが、炎症の四徴と言われています。覚えておきましょう。では、講義は終わります。」

英国紳士のようなおしゃれなスーツ、長身、おだやかで優秀そうな50代後半の教授は、さっそうと去っていった。



数ヶ月後、ぼくは彼の主宰する早朝の抄読会(英語の教科書を読む会)に出はじめた。

ちょうど半年経った頃、医学部3年生の終わりに、ぼくは「基礎配属」で、病理学第二講座を選び、二週間ほど解剖の見学や、研究の見学などをさせてもらった。

4年生のはじめに、彼に、「ぼくは病理学第二講座に入局します」と伝えることになる。



「今まで聞いた講義の中でもっとも印象に残っている講義」をした教授の下に入るのは、当然だと思ったのだ。


彼は、わずか4分感の講義で、ぼくの心に不可逆な炎症を起こしてしまったようだった。

2017年2月7日火曜日

なんという速く重い攻撃だ

ベジータが料理つくるときに見るサイトは「クックハッハ」だな、などと独り言をつぶやきつつクックパッドを見ている。料理はもうなんかぜんぜんやってない。スーパーには「プルコギセット」みたいな、肉とたまねぎと、係のおばちゃんの気分が乗ったときにはネギとかが、切ってごま油と辛みであえてあるパックが売っているから、それを買ってきてフライパンで瞬間的に加熱してごはんに乗せて食べてしまう。そういう晩飯をよく食う。先日読んだ土井善晴氏の本に影響をうけて、たまには味噌汁を追加することもあるが、「乾燥みそしるの具」みたいなやつをパラパラ注いで手早く混ぜておしまいにする。米は上手に炊く、これだけがポイントで、とにかく米さえうまく炊ければぼくの場合はどうにでもなってしまう。でも、米が炊けなくてもよしとすることもあり、たとえば肉に飽きた日に、魚の切り身やエノキダケをホイルに乗せてバターをおとしてホイルでくるんでフライパンでちょっと焼いておしまい、食べるときにはポン酢をかけて味を調節しながら食べる。このときはもはや汁物も、ごはんさえも用意せず、金麦75%オフのやつを3本ほど用意して晩飯にしてしまう。普段はおかしをほとんど食べないが、出張のあとに大量に買って帰った「おみやげ」(だいたいはフォロワーから教えてもらったやつだ)が戸棚に溜まると、朝飯は出張先のおかしにしてしまうこともある。

このようなきわめて質素で適当な朝食および夕食・夜食が許されているのはひとえに、勤務中は毎日かならずボスと一緒に職員食堂に行ってB定食(460円)を食う、という決まりになっているからだ。B定食には小鉢を2つ付けることができ、いんげんの和え物とか小さな卵焼きとか切り干し大根のような副菜をとることができる。食堂のおばちゃんもおっちゃんも愛想はないがぼくの顔と体型をみてご飯を適切に盛るくらいのワザを持っている。朝と晩がめたくそならば昼しっかり食べればよい、忙しければ食を抜くこともあるだろう、深酒で少し食い過ぎる日もあるだろう、でも、昼飯はがっちり管理のB定食だ(ただしB定食が鳥料理の場合、ボスが鳥が苦手なのでA定食に変更となる)。

結論として……ぼくの体はB定食により管理されている、ということだ。管理というほどでもないか、なんというか、真ん中に一本、B定食という背骨が通った食生活をしている、というくらいのニュアンスが正しいかもしれない。そこまででもないか、背骨が全部B定食というのは言い過ぎだな、そうだな、尾てい骨くらいはB定食でできてるんじゃないかな、びいていこつ、だけにね、クックハッハ。

2017年2月6日月曜日

病理の話(45) ポリープひとつに真剣に

「ポリープ」という言葉がある。大腸ポリープ、胃ポリープ、声帯ポリープ、などという。

ポリープとは何かというと、「粘膜からにょきっと生えているもの」を指す。かたちに対応する言葉である。

大きさは問わない。色も問わない。細かい形状も問わない。東京ドームのようなひらべったいカタチでもポリープと呼んでいいし、傘のように上がふくらんで、下に細い茎があるものもポリープと呼んでよい。

まあ、もうちょっとだけ細かい定義があるんだけど、それはこの際、いいだろう。



さて、そんなポリープは、がんであることもあるが、単に「粘膜がちょっと伸びちゃっただけ」であることもある。がんだったら、放っておいたら、将来命にかかわるかもしれない。けど、粘膜がたまたま引っ張られて伸びているだけだっていうならば、放っておいたって構いはしない。

この「ポリープ」が、今すぐとっておいたほうがよい「がん」か、それ以外かを区別するのは、とても大切なことなのだ。では、どうすればよいか?

採って、顕微鏡で見る。そうすれば、細胞を直接調べることができる。解決である! 病理ばんざい!



……そうなんだけど。これで終わってしまってはいけないのだと、あえて、病理医であるぼくは、言いたい。

日本の多くの消化器専門医だって、きっとそう思っている。



ポリープが出てくる度に全部ていねいに採って、顕微鏡で見れば、それだけお金もかかるし、時間もかかる。

一番いいのは、

・病理診断なんかしなくても、胃カメラや大腸カメラをやったお医者さんが、その場で、
「なんかがんくせぇな」
とか、
「こりゃ絶対がんじゃねぇな」
と判断をつけてしまうこと

なのだ。


でも、これはなかなか難しい。

顕微鏡を見ないで、病気の正体を見極めるというのは、コナン君の推理に似ている。「見てきたように語る」をやらないといけない。コナン君と違って、犯人が程良いタイミングで説明口調の自白をしてくれるわけでもない。

難しいけれど。いつか、そうなれたらいいなあと、内視鏡医たちは、ずっと思っていたのだ。


そこで大切になってくるのは、病理医と臨床医がいっしょになって、ディスカッションをすることである。



「このポリープさあ、結局、がんだったんだけどさあ、あとで見返してみたら、やっぱり良性のポリープと違って、ここのところがソゲてると思うんだよ」

「そうかなるほど、顕微鏡でみると、確かにそこのところは、細胞の増殖が激しくて、周りの組織を壊してるんだよな、自分がいるべき床をも破壊しちゃってるんだよ。だから周りに比べるとちょっと低くなってる」

「ふむふむ、ドームの頂点のところだけ不自然にへこんでいたのは、ここで浸潤(しんじゅん)が起こっていたからなのかな」

「それでいいんじゃないかなあ。今度から、同じドーム型の病変で、この色、このカタチをしていて、ここにソゲがあったら、がんの可能性が高いのかな?」

「どれどれ、似たようなことが書いてある論文がないかどうか調べてみよう。俺は病理な。おまえ胃カメラの論文調べてくれよ」

「OK」

「OK」



こういった会話をどんどん深めていくことは、おそらく、診断学を広げていくのではないかと、ぼくらは思っている。

2017年2月3日金曜日

べっ、蔑称に、あんたのことなんか好きじゃないんだからね

「これからの女子のトレンドはおっさんだ」、みたいな記事を読んで(カクテルよりホッピーが好きだ、みたいな)、いつものごとく迂遠な揶揄じゃねぇか、と思ったけれど、記事にコメントをつけている人の多くは、

「わたしもおっさん」

「おれもおっさん」

「お前は正真正銘のおっさんじゃねぇか」

「ほこりたかきおっさん」

などと、楽しそうであった。



いろんな場で見る。こういう論法を。

本来であれば「蔑称」のはずの二つ名を自らに冠して、居酒屋で、職場で、ネット上で、他人や同僚、友人たちと、自分のだめさ加減を、うまいことバランスを取りながら、おいしくなあれ、おいしくなあれと、ジャムおじさんみたいに練っていく話法を。



不思議な感情だよなあ。自分を軽くおとしめたほうが、自分が楽しくなれる、みたいなやつって。




人間が今もっている脳は、長い進化の途中にあるけれど、ここまでで何億回もの適者生存の理を生き延びてきた。

だったら、

「自分の汚点を軽く強調することで、集団の中でポジションを確立する」

みたいな感情もまた、長い時間をかけてなお、合目的に脳と生命に許容されているものだ、ということになる。

進化の過程で、排除されてこなかった感情なのだ。



「進化の過程での、感情の排除? なんだそりゃ」と思われる方もいるかもしれない。

でも、そういうことは、たぶん長い人類史の中で、何度も起こっている。

たとえば、「近親相姦」に対する感情、というか本能。多くの場合、自分の家族と関係を持ちたいとは「夢にも思わない」。もちろん多少の多様性はあるのだが……。

自分の家族と関係を持ってしまうと、遺伝子の脆弱性がそのまま次代につながってしまう危険性が高い。だから、人類が地球に居続けるためには、近親相姦を本能のレベルで禁止していないといけなかった。

つまり、進化の過程では、「生きていく上で危険な感情」については、ある程度排除されてきているように思う。

(感情とは、理性とは、本能とは、みたいな話でもう少し層別化しないと正しい話にはならないのだが、あくまで雰囲気が伝わればと思って書いているので、細かい齟齬については目をつぶってください)



さて、その上で、だ。

「自虐でちょっと楽しくなる」というのは、残っていていい感情だったのだろうか。

まあ、「優秀さが目立ってしまうと真っ先に狩られる」みたいな環境では、このような感情があった方が生存に有利だったのかもしれない。

それにしても、自分を卑下するような話法を用いて、脳が喜ぶ場合がある、というのは、これはまたずいぶんと複雑だなあと、苦笑するほかない。



そういえば「苦笑」というのもおもしろいよな。犬も猫もときおり笑うように思うけど、苦笑はするのだろうか。

自虐も、苦笑も、あるべくして残った感情なのだろうか?



人間、不思議だし、自由だなあと思う。

もしかしたら、「あるべき」ではなく、「まあなくてもいいけど、あってもかまわんよ」くらいで残った感情というのも、あるのではないか、という気もする。

人の脳というのは、かなり「一見して不合理」な要素をけっこう多く残している。「あそび」が多い。「無駄」が多い。自由度が高い方が柔軟だとか、多様性を生んで結果的に種族が生き延びるためだとか、解釈はできるんだけど、それにしても、だ。



「おれもさあ、もうさ、おっさんだからさー」

「えーマジで? でも私もけっこうおっさんくさくてさー」



これで盛り上がる場というものに、ぼくは今、大変に興味がある。

そういえば、ツイッターには、自分の離婚歴や養育費について語ることでフォロワーを増やしているアカウントがあると聞く。


2017年2月2日木曜日

病理の話(44) EBMは温故知新と訳す

40年くらい前の病理医が何をやっていたのか、みたいなのを調べている。

やたらと電子顕微鏡を使っている。

免疫染色と呼ばれる手法が登場するまでは、高価な電子顕微鏡を用いて病気のありようを調べるやり方は、一般的……とは言わないが、少なくとも病理医にとってのアイデンティティではあったのだ。

ぼくのボスも、電子顕微鏡の話をする。電子顕微鏡だけではなく、大脳の大切片(5μmくらいの厚さで脳の輪切りを作り、まるごとガラスにのせて巨大なプレパラートにする、ロストテクノロジー、オーパーツに近い。そんなバケモノみたいな標本作製技術を持った人間は今の時代にはおそらくいない)の話や、病理医のいる病院では病理解剖が年間100件近く行われていた時代の話など、「昔の病理医がやっていたこと」を、ときおり聞く。まるっきり、むかしばなしの世界である。口頭伝承はたいてい、昼飯時に行われる。たのしい。

さまざまな技術が、その時代、その時代で最先端とされ、人が群がり、金をかけ、頭脳を集めて、成果を上げてきた。

電子顕微鏡は高価である。標本を作るのも高価だ。しかし当時、細胞の中で何が起きているのかを知るには、電子顕微鏡で見えるものを探すしかなかった。だから、重宝された。

その後、遺伝子やタンパクの研究が進み、蛍光染色の切れ味が増し、免疫組織化学染色が登場するに至って、手間がかかる電子顕微鏡は急速に廃れた。現在、診断という目的では、軟部腫瘍や腎臓などの専門施設でごく限定された使い方をされるに過ぎない(高度の基礎研究では今も使用される)。


***


では、ロストテクノロジー化しつつある電子顕微鏡で得られた結果は、過去のものなのか。

そうでもない。むしろ、当時電子顕微鏡で見て得られた細胞の情報が、今でも強烈な光を放つ場合がある。




電子顕微鏡なき今、免疫染色という技法を用いて、細胞のある一側面を「強調」して診断していると、ときどき、なんというか……

「Photoshopで二階調化とかポスタライズしたあとの画像を見ているような気持ち」

になるというか……(伝わらなかったらごめんなさい。雑誌「病理と臨床」のパクリです)。



免疫染色というのは、そこにある1種類のタンパク質をめがけて「抗体」という標識をうちこみ、抗体をめったやたらとインクで塗りまくることで、「ある1種類のタンパクがそこにあるかどうか」をがりがり強調する手法である。

そこにタンパクがどれだけあるかという「定量」にはあまり向いていない。

また、複数種類のタンパクを同時に見るには、それだけ多くの免疫染色を行って、結果を頭の中で掛け合わさなければいけない。

インクを打ちまくることで、細胞内の「どこに」タンパクが存在するかの精度が悪くなる。核か、細胞質か、細胞膜か、細胞質のだいたいどのあたりか、までは見えるのだが、高次微細構造のどこに具体的にタンパクが存在するかは見る事ができない。

そこまで詳しく見なくても、臨床的には十分役に立つと、みんなが納得したから、「細かく見すぎる」電子顕微鏡の技術は「簡便に、わかりやすく、二階調化した感じで、強調して見せてくれる」免疫染色に取って代わられたんだけど。


簡便性、利便性を求めて進歩した免疫染色の影で、電子顕微鏡だけが拾っていたニュアンス的なものは、確実に失われていった。それは、失われても誰もソンしない類いのものだった。だから、失われても仕方が無いと言えた。


氷屋さんや、らお屋さん、金魚売りなどが、世の中から消えていったように。



ところが、おもしろいことに。

病理診断学とは別に、臨床医の診断学がどんどん向上して、MRIが分子診断に近づいたり、NBI拡大内視鏡がミクロの世界を描出できるようになったりすると、「臨床診断が病理に求めること」もまた、どんどん細かくなっていくわけで。

すると、「まあここまでは見なくてもいいんじゃない? 免疫染色で二階調化した画像だけ見とけばいいよ」と言っていた領域で、

「うーん……二階調化するのもいいけど…… ”元絵” を見たいなあ……」

という話が、たまに出てくる。


今、ぼくはときどき、あの細胞やこの構造を、電子顕微鏡で見てみたいなあと思うことがある。

それは、超拡大内視鏡と呼ばれる最先端技術の画像・病理対比を依頼された時、あるいは、核医学・病理対比の世界で新たな核種の検討をしていた時などに、複数回訪れた。

ああ、細胞の、いちばん細かいところを、アナログに見てみてえなあ……!




ぼくは基本的に、アナログ診断よりもデジタル診断が、人間よりもAIが、総じて優れていると思っている。だから、今更電子顕微鏡を見てみたいと思っているのは、

「失われた技術にも科学を発展させる余地がある!」

みたいな、懐古主義から出た感情ではない。

単純に、脳が、「知りたい! 見てみたい!」と思っているだけの話なのである。


別に、こんなもの、見なくても、患者は困らない。

けど、ぼくの脳が困るなあと、思ったりしているのである。









念のため言っておくが、見たら、患者にとっていいことはある。見なくても困らないけど、見たらきっといいことが増える。

そう信じている場合に、この仕事を「人として」続けることができる。

2017年2月1日水曜日

ZAZEN BOYSの新譜が出ない

Suchmosの新譜を買ったのだが、そういえば、平気で「かっこよさげな曲」を聴くようになったなあと思った。

かっこよさげな曲、かわいげのある曲なんてものは、男のコにとっては恥である。ぼくなんぞは、そう思っていた。何をシャレオツな。ちょっとひねた曲を聴け。キャーキャー言うな。

それがいつのまにか、かっこよさげだから聴こう、ああ、かっこよさげだ、いいねえ、と言うように、「軟化」していた。

なんでだろうな。

ぼくは、どちらかというと、過去には絶対に戻りたくないと思っている方の人間で、いつの時代だってつらく苦しかったから、どんな曲を聴いていたときも一様につらく苦しかったし、昔ああいう曲を聴いていたときの自分に戻りたいとは思わないんだけど、昔聴いていた曲だけはまた聴いてみたいとも思う。

だから、音楽の好みが変わったというよりは、「広く許容できるようになった」というほうが正しいのだろうと思う。



人それぞれの好みがあって、人それぞれの持論があって、それはきっと、20歳なら20年分の、30歳なら30年分の、積み重ねによってできあがってきたものだから、2分とか2日とか2年付き合ったくらいでどうこう言われて動くようなものではない。

そういうことに思いが至ったのはこの1年くらいである。38歳のぼくは、38年分の積み重ねを、他の人間の積み重ねてきた15年とか30年とか60年みたいな結晶で、水増ししたり、干渉で目減りさせてしまったりしながら、だんだん、合う合わないなんていう基本的なところでうろうろせずに、許すか許さないか、できれば許す一択でよいのではないかとか、そういう感じになってきた。

だからSuchmosが聴けるようになったのだ、というのは一足飛びに聞こえるだろうか?

いや、一足飛びではない。ぼくは、タイムラインで、燃え殻さんみたいな「かすれたセクシーさをほとばしらせる人」が好きだと公言しているバンドなんて、今までだったら絶対に、堂々とは聴けないでいた。

きっと、誰にも内緒で、買うだけ買って、聴いてはいるんだけど、聴いてませんよ、みたいな顔をしようとしていたはずだ。


あ、宇多田ヒカルの新譜もとてもいいと思います。