2017年2月3日金曜日

べっ、蔑称に、あんたのことなんか好きじゃないんだからね

「これからの女子のトレンドはおっさんだ」、みたいな記事を読んで(カクテルよりホッピーが好きだ、みたいな)、いつものごとく迂遠な揶揄じゃねぇか、と思ったけれど、記事にコメントをつけている人の多くは、

「わたしもおっさん」

「おれもおっさん」

「お前は正真正銘のおっさんじゃねぇか」

「ほこりたかきおっさん」

などと、楽しそうであった。



いろんな場で見る。こういう論法を。

本来であれば「蔑称」のはずの二つ名を自らに冠して、居酒屋で、職場で、ネット上で、他人や同僚、友人たちと、自分のだめさ加減を、うまいことバランスを取りながら、おいしくなあれ、おいしくなあれと、ジャムおじさんみたいに練っていく話法を。



不思議な感情だよなあ。自分を軽くおとしめたほうが、自分が楽しくなれる、みたいなやつって。




人間が今もっている脳は、長い進化の途中にあるけれど、ここまでで何億回もの適者生存の理を生き延びてきた。

だったら、

「自分の汚点を軽く強調することで、集団の中でポジションを確立する」

みたいな感情もまた、長い時間をかけてなお、合目的に脳と生命に許容されているものだ、ということになる。

進化の過程で、排除されてこなかった感情なのだ。



「進化の過程での、感情の排除? なんだそりゃ」と思われる方もいるかもしれない。

でも、そういうことは、たぶん長い人類史の中で、何度も起こっている。

たとえば、「近親相姦」に対する感情、というか本能。多くの場合、自分の家族と関係を持ちたいとは「夢にも思わない」。もちろん多少の多様性はあるのだが……。

自分の家族と関係を持ってしまうと、遺伝子の脆弱性がそのまま次代につながってしまう危険性が高い。だから、人類が地球に居続けるためには、近親相姦を本能のレベルで禁止していないといけなかった。

つまり、進化の過程では、「生きていく上で危険な感情」については、ある程度排除されてきているように思う。

(感情とは、理性とは、本能とは、みたいな話でもう少し層別化しないと正しい話にはならないのだが、あくまで雰囲気が伝わればと思って書いているので、細かい齟齬については目をつぶってください)



さて、その上で、だ。

「自虐でちょっと楽しくなる」というのは、残っていていい感情だったのだろうか。

まあ、「優秀さが目立ってしまうと真っ先に狩られる」みたいな環境では、このような感情があった方が生存に有利だったのかもしれない。

それにしても、自分を卑下するような話法を用いて、脳が喜ぶ場合がある、というのは、これはまたずいぶんと複雑だなあと、苦笑するほかない。



そういえば「苦笑」というのもおもしろいよな。犬も猫もときおり笑うように思うけど、苦笑はするのだろうか。

自虐も、苦笑も、あるべくして残った感情なのだろうか?



人間、不思議だし、自由だなあと思う。

もしかしたら、「あるべき」ではなく、「まあなくてもいいけど、あってもかまわんよ」くらいで残った感情というのも、あるのではないか、という気もする。

人の脳というのは、かなり「一見して不合理」な要素をけっこう多く残している。「あそび」が多い。「無駄」が多い。自由度が高い方が柔軟だとか、多様性を生んで結果的に種族が生き延びるためだとか、解釈はできるんだけど、それにしても、だ。



「おれもさあ、もうさ、おっさんだからさー」

「えーマジで? でも私もけっこうおっさんくさくてさー」



これで盛り上がる場というものに、ぼくは今、大変に興味がある。

そういえば、ツイッターには、自分の離婚歴や養育費について語ることでフォロワーを増やしているアカウントがあると聞く。