2017年2月13日月曜日

生命を与えるものの筋道

もう長いことアニメ見てないけど、最後に見たアニメってなんだっけ、と考える。

「峰不二子という女」だった気がする。

ぼくはたぶんアニメとかほんとうはすごい好きなはずなんだよな。

だって、アニメが好きな人の言ってることが、すごいわかるし……。




「○○が好きな人」の言ってることがわかるかわからないか。

自分が○○を好きになるとは限らないんだけど、その人が言う意味はわかる、ということ。

何かが楽しい、何かが好きだと公言する人の、「筋道が通っているかどうか」は重要だと思っている。

その筋道がぼくにも理解できる場合には、何かうれしい偶然があれば、ぼくだってその○○を好きになれるだろう、ということだから。




ところで。

自分がいやだなあと思う人、にも、考え方の筋道がある。

前提や付置条件が違うだけで、話のつじつまはあっている。

論理的ではある。自然な考えでもある。

自分はこうはなりたくない、と、軽蔑している人間であっても、その人の中で筋は通っているのだ、ということを、最近いろいろな方面から教えられた。



「自分はその方向には絶対に行かないし行きたくないけど、その人の考えの中ではつじつまがあってる」、ということ。

名著「質的社会調査の方法」の中には、「他者の合理性」という言葉が出てきた。浅羽先生という方も、共感はしなくてもいいが理解はできるはずだ、とおっしゃっていた。

ああそうか、なるほどなあ、と思う。この年にして。この年になったから?

田中ひろのぶさんという人のツイートを見ていたら、若いときのほうが不寛容だという趣旨のことを書かれていた。そうかもな、年を取ると寛容になるのかもしれない。



その人が抱える背景、事情をくみつつ、その人が編んでいる理論構成に納得をし、それでもなお、相手を自分の色に染めたくなる日というのは、この先、くるだろうか。

ぼくはそこまで繊細ではないから、お互い、わかりきらん部分はあるけど、筋道が通っているってわかればそれでいいよと、あきらめて、放り出して、そのまま自分の部屋に戻って鍵をかけるようになるのではないか。




そうか、そういえばぼくは、

「アニメの好きな人が言うことはわかる」

けど、

「べつにアニメが好きなわけではない」

のかもしれないんだなあ、と思った。

でも、最後に見たアニメは、峰不二子ではなくて、「この世界の片隅に」だし、あれはほんとうにおもしろかったから、うーん、やっぱり、アニメ好きなのかなあ。

(追記: この記事を書いたあとにけものフレンズを見始めました)