もう長いことアニメ見てないけど、最後に見たアニメってなんだっけ、と考える。
「峰不二子という女」だった気がする。
ぼくはたぶんアニメとかほんとうはすごい好きなはずなんだよな。
だって、アニメが好きな人の言ってることが、すごいわかるし……。
「○○が好きな人」の言ってることがわかるかわからないか。
自分が○○を好きになるとは限らないんだけど、その人が言う意味はわかる、ということ。
何かが楽しい、何かが好きだと公言する人の、「筋道が通っているかどうか」は重要だと思っている。
その筋道がぼくにも理解できる場合には、何かうれしい偶然があれば、ぼくだってその○○を好きになれるだろう、ということだから。
ところで。
自分がいやだなあと思う人、にも、考え方の筋道がある。
前提や付置条件が違うだけで、話のつじつまはあっている。
論理的ではある。自然な考えでもある。
自分はこうはなりたくない、と、軽蔑している人間であっても、その人の中で筋は通っているのだ、ということを、最近いろいろな方面から教えられた。
「自分はその方向には絶対に行かないし行きたくないけど、その人の考えの中ではつじつまがあってる」、ということ。
名著「質的社会調査の方法」の中には、「他者の合理性」という言葉が出てきた。浅羽先生という方も、共感はしなくてもいいが理解はできるはずだ、とおっしゃっていた。
ああそうか、なるほどなあ、と思う。この年にして。この年になったから?
田中ひろのぶさんという人のツイートを見ていたら、若いときのほうが不寛容だという趣旨のことを書かれていた。そうかもな、年を取ると寛容になるのかもしれない。
その人が抱える背景、事情をくみつつ、その人が編んでいる理論構成に納得をし、それでもなお、相手を自分の色に染めたくなる日というのは、この先、くるだろうか。
ぼくはそこまで繊細ではないから、お互い、わかりきらん部分はあるけど、筋道が通っているってわかればそれでいいよと、あきらめて、放り出して、そのまま自分の部屋に戻って鍵をかけるようになるのではないか。
そうか、そういえばぼくは、
「アニメの好きな人が言うことはわかる」
けど、
「べつにアニメが好きなわけではない」
のかもしれないんだなあ、と思った。
でも、最後に見たアニメは、峰不二子ではなくて、「この世界の片隅に」だし、あれはほんとうにおもしろかったから、うーん、やっぱり、アニメ好きなのかなあ。
(追記: この記事を書いたあとにけものフレンズを見始めました)