何度か書いたことのあるエピソードではあるが……。
ぼくがまだ、病理医になるなんて思いも寄らなかった頃の話をする。
当時、医学部6年間のうち、最初の1年半くらいは、「教養講義」というのがあった。これはつまり、「他学部の学生と何も変わらない期間」である。医学のことはほとんど学ばない。統計学とか化学とか、文学とか、語学とか、北大さながらの「低温科学研究所のはなし」とか、「釧路湿原の科学」であるとか、そういう雑多な講義を楽しく受けていた。
こういうのを受けていると、大学生だなあという実感はわくが、一方で、「はやく医学の勉強をさせてくれい。ついでに肩揉んでくれい((c)ライス)」という気分になる。
2年生の中頃から、満を持してはじまった医学講義。しかしその大半は、生化学や生理学といった「超基礎」であった。まだまだ医者としてのなんたるかにはたどり着かない。それ以前の基礎知識が山ほど必要だったのだ。がくぜんとする。ただ、解剖学などの「人体に触れる講義」もはじまったので、気合いは入った。
そして1年ほど経つと、いよいよ「ベッドサイド」が遠くに見えてくる。でもまだだ。やらなければいけない勉強がある。
それが、「病理学」であり、「薬理学」であり、「細菌学」であり、「腫瘍学」であった。
もうそろそろ医者にさせてくれよ! という我々の前に立ちふさがる、基礎と臨床の端境のような存在。それこそが、生まれて初めて「病理学」というものに触れたときの、我々が感じる印象だったのだ。
今でも覚えている。
病理学は「I」と「II」があった。それぞれ、病理学第一講座と、病理学第二講座の教授が、初回の講義を担当する。「I」の教授は、マウスを使った疾病研究の話を1時間半やった。難しすぎてよくわからなかったが、これこそが患者の治療につながる医学なのだと、背筋を伸ばし、ストレートネックを倒して、がんばって勉強したものだ。
そして、とうとう、「II」の講義がはじまった。
いや、はじまらなかった。
開始5分、10分、教授がやってこない。どうも何か仕事があるらしい。開始20分経って講師がこない場合は休講になるというルールがあった気がする。30分ほど経った時点で、学生のほとんどは食堂や図書館などに消えていき、教室には特にやることを考えていなかった12,3名程度が残っていた。
ぼくもそこにいた。
開始35分。教授がやってきた。
「いやーすみません。遅れちゃった。」
「ではちょっとだけ講義をしましょう。人はだいぶいないけど、まあいいよ、来週からはぼくじゃない講師がまじめにやります。」
学生達は呆然とした。やってくるのは遅いのに、展開が速かった。
彼は、大教室の黒板の右端のあたりに、小さめに「炎症」と書いた。
「今日は、炎症の四徴についてお話しします。」
続けざまに、「発赤」「腫脹」「疼痛」「発熱」と書いた。
「これが、炎症の四徴と言われています。覚えておきましょう。では、講義は終わります。」
英国紳士のようなおしゃれなスーツ、長身、おだやかで優秀そうな50代後半の教授は、さっそうと去っていった。
数ヶ月後、ぼくは彼の主宰する早朝の抄読会(英語の教科書を読む会)に出はじめた。
ちょうど半年経った頃、医学部3年生の終わりに、ぼくは「基礎配属」で、病理学第二講座を選び、二週間ほど解剖の見学や、研究の見学などをさせてもらった。
4年生のはじめに、彼に、「ぼくは病理学第二講座に入局します」と伝えることになる。
「今まで聞いた講義の中でもっとも印象に残っている講義」をした教授の下に入るのは、当然だと思ったのだ。
彼は、わずか4分感の講義で、ぼくの心に不可逆な炎症を起こしてしまったようだった。