2017年10月4日水曜日

彼の名は玉井大翔

ひいきのチームの成績がふるわないとき。

野球でもサッカーでもラグビーでも、ああ、チームと書いたが、ゴルフでもテニスでもフィギュアスケートでもいいんだけれども。

応援している人(たち)がいまいち調子がよくないときに、球場に行って応援をしていると、心のどこかに

「今おれはボランティアをしてやっているぞ」

みたいな、よくない感情がわくことがあった。

「見てやってるんだからな」

「勝つ方を応援した方が楽しいに決まってるけど、あえて負けつつある君を応援してやろう」

「ほら、金を払って見に来たんだぞ、今日くらい勝てよな」



なんとも小汚い感情だ。

ぼくにはそういう小汚いところがあったのだ。




感情は消そうとしても消えるものではない。

だから、なぜ自分がそんな気分になり得るのか、を深く掘っていった。




見に行ってやってる。

金を払って、時間を使って、わざわざ。

プロなんだから、楽しませてくれよ。

それが仕事だろう。

なんなんだよ、こっちだって別に暇じゃないんだ。

いい気持ちにさせてくれよ。

金、もらってんだろう。

それがお前のアイデンティティなんだろう。

ほら、生きてみせろよ。

見ておいてやるから。





いつもいつもこういう気分でいたわけではない。

けれど、たまに……。まれではない、くらいの頻度で……。

「スポーツが楽しくてスポーツを見ているわけではない」という日が、今までに、何度もあったのだ。




自分の時間を他人に説明する上で「スポーツ観戦」と言えば聞こえが良いだろう、くらいの理由でスポーツを見てしまっているときがあった。

野球を見に行くぼくは人生を楽しんでいるだろう?

サッカーを語れるぼくはガリ勉タイプじゃないよな?

フィギュアスケートの採点くらいできるよ、にわかファンじゃねぇんだから。

仕事ばっかりじゃつまらんだろう、スポーツはたしなみだよ。





ふと思った。

これらの感情は、もしかするとぼくにとって、スポーツ観戦の「思春期」にあたるものなのかもしれない。

子供だった頃、大人たちは言った。

スポーツは素晴らしいと。

夢があると。

やるのも、見るのも、ほがらかだと。

それを信じて育っているうちに、大人をまねしてスポーツを楽しんでいるうちに、いつしか、「ぼくにとってのスポーツ」というものがじわじわと、アイデンティティのように、各方面にトゲを出し始めたのではないか。

誰かの価値観ではなく、自分が打ち立てた価値観の中で、ぼくにとってのスポーツがぼくの中で立ち上がるために、スポーツを過剰に神格化してみたり、逆に卑近に貶めてみたり。

いつしか、純粋にスポーツを見て楽しむことを忘れ、「スポーツを見ている自分」がどうであるかばかりを気にするようになっていた。

これは思春期というやつではなかったか。





今年の日本ハムファイターズはふるわない。

中田が三振するたびに胸がえぐられる。

斎藤佑樹がひさびさに1勝をあげたとき、さまざまな人々の人生を思った。

名前を思い出せない若き中継ぎピッチャーが、北海道のある地方都市出身で、地元から応援にやってきた高校生たちが外野スタンドの一角で横断幕をかかげる中、負け試合でがんばってアウトを重ねるシーンで涙が出そうになった。

ぼくはファイターズが勝った日のほうが機嫌がよく、負けた日は悲しく思う。

けれど、もう、「見てやってる」とか、「せっかく金をはらったのに」とは、思わなくなった。

これはぼくが成長したとか、性格が直ったとかいう問題ではないのだと思う。





ぼくはスポーツ観戦においても中年になったのだろう。

毎日、さまざまなスポーツを見て、他人の人生を思うことをしみじみと味わっている。