「地上の飯」(中村和恵)がとてもよかった。すごく乱暴に説明するならば、「食べることにまつわるいろいろを書いたエッセイ」なのだが、なんというか、上質だった。
「料理の四面体」を読んだ時も思ったのだが、学者が食をめぐって書く文章というのはとてもおもしろいなあと思う。
いや、学者じゃなくてもいいんだけど。よく考えるとぼくが椎名誠の本をおもしろく読むとき、旅とおなじくらい食に深入りしていたように思う。
数えてみれば、病理より料理の本を多く読んでいるかもしれない。
でもぼくは、食べ物についてはタンパクで、どこに出張したときに何を食べてどう思ったか、みたいなことをまったく覚えていない。
「山口で食べたはもしゃぶが、今まで食べた食べ物のなかで一番おいしかった」、という「自分の口をついて出た文章」は覚えているのだが。
今、はもしゃぶがどうおいしかったか、思い出せない。
「岡山で飲んだ赤磐雄町の日本酒がとてもおいしかった」、という「文章」は覚えているのだが。
ぼくは日本酒の味の違いを言い表せるだけのことばを持っていない。
「それでも町は廻っている」で亀井堂が、
「それを言葉にしていくのが小説なんだよ。突飛な事書こうとしてもだめなんだ」
というシーンがある。はじめて読んだ時、「ああ、ぼくは小説家にはなれないな」と、しっくりきてしまった。
どうおいしいか、どううれしかったか、それを言葉にできないぼく。
食レポもできないしフードエッセイも書けない。
そして、だから、そういう本を読むのがとても楽しい。
料理をことばにできないぼくは、じゃあ、病理をことばにできているのかと考える。
果たしてどれほどできているものか、と、自問する。
「ことばにできない」という歌詞は一発勝負だ。ことばにできない、と言って言葉にしてしまっているわけで。伝家の宝刀をさっさと抜いてしまった小田和正がその後書き続けたすばらしい詩の数々を見るにつけ、「なんと表していいかわからない」をクリエイティブな文脈で用いることができるのは、たった一握りの、ことばに愛された人間だけなのではないか、と考えさせられる。
ぼくは、ことばにできる、と信じて進んでいかなければやってられない方の、人間である。