「猫たちの色メガネ」を読んでいた。
ぼくはすぐ、読んだ本を何かにリンクさせたがる悪いクセがある。この本を読んで考えたことはアレに使えるなあ。この本みたいな風景を前にも何かの本で読んだぞ。ああ感動した、この感動はあれと同種の感情だ。これと同じジャンルの本はほかにあの人とあの人が書いていたなあ……。
「猫たちの色メガネ」を読みながら、ああ、そういう読み方ばっかりするようになったぼく、つまんねぇ男だなあ、と思ってしまった。
なんでもそうだ。一日の中で経験したことすべてに意味を求めている。
ツイッターでひとつリプライが来たなら、その経験をどこかに書き留めて、いつか別の話題でうまいこと放出しようと考えている。
日常でした何気ない会話のひとつをいつまでも大切にとっておいて、いつかブログの記事にしたらうまいこと書けちゃうんじゃないかと虎視眈々と狙っている。
なんだかつまんねぇなあ、と思ってしまった。
そこに起こった出来事に、意味はある。理由があり背景がある。積み重なった無数の選択がある。人の意志でどうにもならない、自分で選んでいるようで実は全く選択肢がない、選ばされている選択もある。
そして、ああ、なんかそういうことがただ、起こったのだなあ、と、写真1枚を撮って先に進むようなやりかたも、できるのだと思う。
インスタ慣れした世間はみなそうやって、あらゆる出来事に意味づけすることをもはやあきらめているようにも思う。
ぼくも、全ての出来事に理由を問いかけるのをやめてみたほうが、いいのではないか。
「猫たちの色メガネ」の本文中、「こ」だけは違うフォントが用いられている。
なぜだ? と問わないで、そういう本なんだなあ、と。
……生まれ変わらないと無理だな、問わずにいること。
あらゆる物事に何かをリンクさせたがるぼくは、「こ」に気づいた日の夜、ほとんど眠れずにずっと「こ」のことを考えていた。何かうまいこと書けないだろうか、と、考えながら。