2017年10月2日月曜日

夢を語るな手足を語れ

車に乗っているときにはラジオを聴く。先日、「福のラジオ」で福山雅治がこのように言っていて思わず唸ってしまった。

「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

「イェッヒェエッヒエエッヒエエエェエ」

……まちがえた、今のは福山雅治といっしょにラジオやってる放送作家(今浪さん)のものまねでした。もういちどやります。



福「最近の子って、反抗期を経ないまんま、オトナになることがあるらしいんですよ」

今「どういうことですか?」

福「あのね、反抗期って、もともと子供の成長というか自我の確立に必要なイベントらしいのね。子供って、小さいころから親の価値観を吸収して成長していくでしょう。思春期になると、それまで疑問なく受け入れていた親の価値観に疑問を持って、それに反発して、はじめて『自分』というものができあがっていく、ということらしいのね。

けれど、最近の子供ってのは、親だけじゃなくて、いろいろな価値観に触れているじゃない。SNSとかのせいで」

今「ああ……」

福「だから、『親が価値観の全てじゃない』から、あえてアイデンティティを作る時期に親に反発しなくてもよい。親以外にも多様な価値観に触れて自分を形成していくから」

今「ああなるほど……それはすっごいわかりますねえ」




こういう感じだった(別に文字起こしとかしてませんのでだいぶ違うかもしれないけれど、内容はこうです)。

ぼくはとても納得したのだ。

今のひとたちは、親や教師の数が多いのだろう。誰かひとりの師匠という存在はレアになり、どれかひとつの絶対的な価値というものも見出しがたい。徒弟制度の発言力も落ちている。座右の銘は瞬間的にふぁぼられて忘れられていく。

昔よりも「キャリアパス話」がウケるようになっている気もする。誰かを師匠にして暮らそうと決めることが難しい現代において、自分がどうやって生きていこうかと計画することは非常に複雑である。うまいことやっている他人が、そこまでにどうやって歩んできたかをきちんと解析して、いいところだけを吸収したい。

さて、そんな時代だなあとわかった上で、ぼくのところに仕事の依頼が来ている。



「研修医を指導する役割の人間(指導医)にむけて、何かしゃべってほしい」。



うーむ。

昔と違って、「指導医」というあり方もまた変わっているんじゃないかなあ、と思う。

誰かひとりの優秀な指導医についていればいい医者になれる、という価値観、科によってはある程度アリなのかもしれないけれど、いまどきの研修医たちにはたぶん、しっくりこないんじゃないかなあ。

あるいは、全国的に名前が轟いている医者に師事して、自分もひっぱりあげてもらおう、みたいな価値観で動いている研修医もいるとは思うけれど……。

そういう研修医を弟子にとってガリガリ指導するのは、「すでに名前が轟きまくっている医者」だけがやれることであって、9割9分の「普通の指導医」は、もう研修医を弟子扱いしてやっていくことは難しいんじゃないかなあ。




指導医ができることというのは、たぶん、「仕事によって自分はいい思いをしているぞ」というところを研修医に見せること、ではないかと思う。

「あるいはこの先輩と同じポジションに付くかもしれないわけだが、少なくともこの先輩は、このポジションでこうやって働いて、いい思いをしているのだな」と、「いいね」をひとつ付けてもらう。

研修医たちが、SNSでライトに「いいね」を付けるのと同じくらいの労力で、指導医にも「いいねの目」を向けてもらう。

たかが「いいね」一つであるが、そのいいねはきっとフォローのきっかけとなり、拡散のきっかけとなる。単一の師匠にはなれないけれど、何百人も、何千人もいる「フォローしているひとたち」の一人になれば、きっと、何か伝えることができる。




「夢に手足を」という言葉があるが、指導医の語る夢は研修医には届かない。

優れた手足を持った人間が、夢を稼働させているところを見てもらい、察してもらわないとはじまらないのではないか。

そんなことを思いながらプレゼンを編んでいる。